ような熱さがまた身裡《みうち》に甦《よみがえ》って来るのでもあった。奇妙なことに、それを読んだ三年前の季節の部屋の容子とその頃の心のありさままでこまごまと彼には回想されるのであったが、それは殆ど現在の彼と異っていないようでもあった。その頃、彼は一度東京へ出て知人を訪《たず》ねようと思っていた。がたったそれだけのことが彼にとってはなかなか決行できなかった。電車で行けば一時間あまりのところにある地点が彼には無限のかなたにあるもののように想像されたし、もしかするとその都会は一夜のうちに消滅しているかもしれないと、妄想《もうそう》は更に飛躍して行った。もの音の杜絶《とぜつ》した夜半、泥海と茫漠《ぼうばく》たる野づらの涯《はて》しなくつづくそこの土地の妖《あや》しい空気をすぐ外に感じながら、ひとりでそんなことを考えていると、都会の兇悪《きょうあく》な相貌がぐるぐると胸裡を駆けめぐりそれは一瞬たりとも彼のようなものの拠《よ》りつけそうにない場所に変っていた。そこには今では、彼にとって全く無縁のものや、激しく彼を拒否しようとするもののみが満ち溢《あふ》れていた。それでなくても、顔の固疾や、脆弱《ぜいじゃく》な体質が出足を鈍らすのであったが、着つけない服をつけ、久し振りに靴を穿《は》いて出掛ける時には、まるで大旅行に出て行くように悲壮な気持がしたものであった。……鱶の泳ぎ廻る海底の姿と黙示録の幻影がいつまでも重たく彼の心にかさなり合っていた。
生涯のある時期に於《お》いて、教師をするということは、僕にとって予定されていたことかも知れません、とにかく、やってみるつもりです。――彼はある朝、ひっそりとした時刻に、友人に対《むか》ってこんな手紙を書いた。そしてペンを擱《お》くと、障子の硝子《ガラス》の向うに見える空が、いまどこまでも白く寒々と無限に展《ひろ》がってゆくように想えた。あの寒々とした中に、以前からこの予言は誌《しる》されていたのであろうか――近く始ろうとする教師の姿をぼんやり考えてみた。殆ど何の自信も期待も持てなかったが、それでも、そこへ強《し》いてゆくものが、たしかにあった。彼の安静な、そしてまた業苦多い、孤独の三昧境《さんまいきょう》は既にこの二三年前から内からも外からも少しずつ破壊されていた。ある時は猛然と立って、敵を防ごうとしたが、空白の中に行詰ってゆく心理は、死
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