とを頼んでみるのだつたが、下宿の部屋へ戻つて来ると、今は誰もゐない部屋なのに緊迫した空気と追詰められてゐる自分が見えてくる。硝子戸だけで雨戸のない窓はガタガタと寒い風にふるへた。
(私が幼かつた頃には女中が足袋を温めてはかせてくれた。そんなにいたはられ大切にされながらも私はよく泣きたい気持にされた。火の気のない朝、氷雨ふる窓にふるへながら、いま私はあの子供をおもひだすのだ。)[#底本は「だすのだ)。」]
 私は心のなかでこんな言葉を繰返してゐた。その言葉は私の胸だけを打つのかもしれなかつたが……。私にとつて、火の気のない冬は既に三度目だつた。

 ある日、私は阿佐谷の友人を訪ねて行つた。Sは外出中だつたが間もなく帰つて来るといふので引とめられた。座敷に坐つてゐても、私は何かしーんとした空気を身につけてゐるやうな気持だつたが、話相手に出て来たSの細君が、ふと不安げにこんなことを語りだした。
「おそろしい病気もあるものですよ。Hさんの親戚の山宮さんといふ方が一週間前に亡くなられたのですが、はじめ中国から復員する船のなかで、ふと通路が分らなくなつたことがあるのです。上官にひどく頭部を撲られた
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