知らぬ人をR・Sに誘つたりするやうなことはしなかつた。約束の時間は来てゐたが相手の姿は見えなかつた。やはり来ないのかとベンチを立上らうとした時、あたふたと相手はやつて来て帽子をとつた。
「実は今日は大変なことがあつて失礼します。為替を道で落してしまつたので、これから友達のところへ行かねばなりません」
私は次の会合の日どりと私の下宿を教へて相手と別れた。だが、次の会合の時も相手の姿は現れなかつた。それから一週間もして私の下宿に葉書が舞込んだ。約束はしたが急に帰郷しなければならない用件が出来たので失礼したといふ断り状だつた。その葉書の片隅に山宮泉とあつた。私はそれで始めて相手の姓名を知つたのだつた。
私が彼と三度目に逢つたのは、その翌年の春だつた。どちらも殆ど学校に出てゐないらしく出逢ふ機会もなかつたが、ある日の合併授業の教室で相手は私を見つけると、ふと懐しげに近よつて来た。
「何度も失礼しました。一寸いろいろ都合つかない事情があつたので、漸くそれも片づきましたから……」
この次からR・Sの会へ出てもいいと云ふ顔つきだつた。しかし、私たちのR・Sはその頃既にバラバラになり自然消滅の形になつてゐたのだ。
私はその日の午後になるとやはり山宮泉の告別式に出かけて行く気になつてゐた。からりと晴れた寒い美しい日だつた。S学園前で電車を降りると、その辺は空気も澄んでゐて桜並木の路も私の眼に泌みるやうだつた。学園の運動場を横切つて、女学校の講堂へ来てみると、告別式は既に始まつてゐた。参列者の殆ど大部分が女学生で、祭壇の左右に遺族らしいものの姿やSの細君やSの友人のHやAの姿が見えた。祭壇にはたしかに山宮泉の写真が飾つてあるらしかつた。私はそれをやがて見ることができると思つた。その写真を眺めるために私はやつて来たのに違ひない。私はそつと後の列の脇にひとり離れて佇んでゐた。
先生らしい男がふと列を離れると、靴音をたてまいとして、慎重な身振りで歩かうとしてゐた。その靴さきに集中されてゐる慎重さが私の注意を惹くと、私は何となく「イ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ン・イリツチの死」のこまかい描写を連想した。それから、人間の死の雰囲気のなかにゐる人間たちの姿を考へた。私は五年前死別れた妻の葬儀を夢のやうに思ひ出してゐるのだつた。その時、列の後の方で合唱隊の唱歌が始まつた。…
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