透明な輪
原民喜

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)訝《いぶか》りながら
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 三角形の平地を七つに岐れて流れる川は瀬戸内海に注いでゐた。平地を囲んで中国山脈があった。平地は沢山の家や道路で都市を構成してゐた。それは今も活動してゐるのだが、彼は寝たまま朧げに巷の雑音を聞いてゐるので、活きてゐる街の姿がもう想ひ出せなかった。
 そのかはり殆ど透明な輪のやうな風景が、彼の頭には次々と浮んで来る。風景と云ふものは、臭ひや温度を持ってゐるから、瀕死の男にとっては苦痛の筈なのだが、今頭に浮んで来る風景は淡々として差程神経を刺戟はしなかった。
 もと彼は景色に対して異常な感受性を持ってゐたから、何か景色のなかに趣きがあるものとか、景色に自己を投影出来るものを絶えず探し歩いた。と、同時にそれを表現するための言葉を何時も苦心して考へたが、考への途中でよく生活上の雑念が突然入込んで来るので、彼はよく悩まされた。煩雑な生活のために精神の統一が出来ないのだと彼は思った。一本の松の姿を単純に歌ふと云ふことだけでも、どんなに困難な業か、彼はそれをよく嘆じた。また自分の心境でも煩
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