雑な生活の底に澄んで流れる一すぢの水を掬って歌はうと思った。清澄で素朴で単純なものに価値を感じる彼は抒情詩人であった。
彼の生涯はあまり単純ではなかった。生れ落ちると、料理屋へ養子にやられた。義理の母と云ふのが、さう云ふ商売にあり勝ちの女で、資本を出す男から男へ移るうち、結局は世間の恨みを買って、没落した。家が没落したのと、彼の肺病が再発したのが殆ど同時であった。彼は宿屋を開業して家の再興を計らうとした。しかし心と身体は並行しなかった。親一人、子一人と云ふ感慨も彼を奮ひ立たせはしなかった。病気はそれでなくても煩雑な細々としたことが気になった。気になるばかりで焦々するうちに疲れた。疲れても疲れても、夜の次には朝があった。さうして暑い夏が過ぎて、秋もやや冷え目になった頃、彼の病気はいよいよ改まった。今彼は自分の生涯がそれほど重苦しく、みじめなものともみえなくなって、只、銀幕の記憶か何かのやうに朧げに見えてゐた。――さうして、今寝てゐる姿だけがはっきりした。
骨肉や友達や女の記憶も、それらが今は悩しくなかった。
女と云へば彼にしつこく附纒った年増もゐたが、色里に育ちながら、女の肉体はた
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング