なにものももうわたしから始らないのかとおもふと、わたしのなかにすべての慟哭がむらがつてくる。わたしの視てゐる碧い碧い波……あんなに碧い波も、ああ、昔、昔、……人間が視ては何かを感じ何かを考へ何かを描いてゐたのだらうに、……その碧い碧い波ももうわたしの……わたし以前のしのびなきにすぎない。死・愛・孤独・夢……さうした抽象観念ももはやわたしにとつて何にならう。わたしの吐く息の一つ一つにすべての記憶はこぼれ墜ち、記号はもはや貯えおくべき場を喪つてゆく。ああ、生命《いのち》……生命……これが生命あるものの最後の足掻なのだらうか。ああ、生命、生命、……人類の最後の一人が息をひきとるときがこんなに速くこんなに速くもやつてきたのかとおもふと、わたしのなかにすべての悔恨がふきあがつてくる。なぜに人間は……なぜに人間は……なぜ人間は……ああ、しかし、もうなにもかもとりかへしのつかなくなつてしまつたことなのだ。わたしひとりではもはやどうにもならない。わたしひとりではもはやどうしやうもない。わたしはわたしの吐く息の一つ一つにはつきりとわたしを刻みつけ、まだわたしの生きてゐることをたしかめてゐるのだらうか。わ
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