うしてもわたしは足音が恋しくてならない。わたしはぞろぞろ動くものについて歩いた。さうしてゐると、さうしてゐるうちに、わたしはわたしにもどつて来さうだつた。ある日わたしはぼんやりわたしにもどつて来かかつた。わたしの息子がスケツチを見せてくれた。息子が描いた川の上流のスケツチだつた。わたしはわたしに息子がゐたのをふと気がついた。わたしはわたしに迷はされてはいけなかつたのだ。わたしにはまだ息子がゐたのだ。突然わたしは不思議におもへた。ほんとに息子は生きてゐるのかしら。あれはやつぱし影ではないのか。わたしはハツと逃げ出したくなつた。わたしは跣で歩き廻つた。ぞろぞろ動くものに押されて、ザワザワ揺れるものに揺られて、影のやうなものばかりが動いてゐるなかをひとりふらふら歩き廻つた。さうしてゐれば、さうしてゐる方がやつぱしわたしらしかつた。わたしの袖を息子がとらへた。「お母さん帰りませう、家へ」……家へ? まだ還るところがあつたのかしら。わたしはそれでも素直になつた。わたしはわたしに迷はされまい。わたしにはまだ息子がゐるのだ。それだのに何かパタンとわたしのなかに滑り墜ちるものがある。と、すぐわたしはま
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