ること、小鳥が毎朝、泉で水を浴びて甦るやうに、僕のなかの単純なもの、素朴なもの、それだけが、ただ、僕を爽やかにしてくれる。
〈僕の頭の……〉
〈僕の頭の……〉
〈僕の頭の……〉
僕には僕の歌声があるやうだ。だが、僕は伊作を探してゐるのだ。伊作も僕を探してゐるのだ。それから僕はお絹を探してゐるのだ。お絹も僕を探さうとする。僕は伊作を知つてゐる。僕はお絹を知つてゐる。しかし伊作もお絹も僕の幻想、僕の乱れがちのイメージ、僕の向側にあるもの、僕のこちら側にあるもの……。ふと声がしだした。伊作の声が僕にきこえた。
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〈伊作の声〉
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世界は割れてゐた。僕は探してゐた。何かをいつも探してゐたのだ。廃墟の上にはぞろぞろと人間が毎日歩き廻つた。人間はぞろぞろと歩き廻つて何かを探してゐたのだらうか。新しく截りとられた宇宙の傷口のやうに、廃墟はギラギラ光つてゐた。巨きな虚無の痙攣は停止したまま空間に残つてゐた。崩壊した物質の堆積の下や、割れたコンクリートの窪みには死の異臭が罩つてゐた。真昼は底ぬけに明るくて悲しかつた。白い大きな雲がキラキラと光つて漾つた。朝は静けさゆゑに恐しくて悲しかつた。その廃墟を遠くからとりまく山脈や島山がぼんやりと目ざめてゐた。夕方は迫つてくるもののために侘しく底冷えてゐた。夜は茫々として苦脳する夢魔の姿だつた。人肉を啖ひはじめた犬や、新しい狂人や、疵だらけの人間たちが夢魔に似て彷徨してゐた。すべてが新しい夢魔に似た現象なのだらうか。廃墟の上には毎日人間がぞろぞろと歩き廻つた。人間が歩き廻ることによつて、そこは少しづつ人間の足あとと祈りが印されて行くのだらうか。僕も群衆のなかを歩き廻つてゐたのだ。復員して戻つたばかりの僕は惨劇の日をこの目で見たのではなかつた。だが、惨劇の跡の人々からきく悲話や、戦慄すべき現象はまだそこそこに残つてゐた。一瞬の閃光で激変する人間、宇宙の深底に潜む不可知なもの……僕に迫つて来るものははてしなく巨大なもののやうだつた。だが、僕は揺すぶられ、鞭打たれ、燃え上り、塞きとめられてゐた。家は焼け失せてゐたが、父母と弟たちは廃墟の外にある小さな町に移住してゐた。復員して戻つたばかりの僕は、父母の許で、何か忽ち塞きとめられてゐる自分を見つけた。今は人間が烈しく喰ひちがふことによつて、すべてが塞き
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