すかな救ひだつたのかもしれない。重傷者の来て呑む泉。つぎつぎに火傷者の来て呑む泉。僕はあの泉あるため、あの凄惨な時間のなかにも、かすかな救ひがあつたのではないか。泉。泉。泉こそは……。その救ひの幻想はやがて僕に飢餓が迫つて来たとき、天上の泉に投影された。僕はくらくらと目くるめきさうなとき、空の彼方にある、とはの泉が見えて来たやうだ。それから夜……宿なしの僕はかくれたところにあつて湧きやめない、とはの泉のありかをおもつた。泉。泉。泉こそは……。
 僕はいつのまにか記念館の外に出て、ふらふら歩き廻つてゐる。群衆は僕の眼の前をぞろぞろ歩いてゐるのだ。群衆はあのときから絶えず地上に汎濫してゐるやうだ。僕は雑沓のなかをふらふら歩いて行く。僕はふらふら歩き廻つてゐる。僕にとつて、僕のまはりを通りこす人々はまるで纏りのない僕の念想のやうだ。僕の頭のなか、僕の習癖のなか、いつのまにか、纏りのない群衆が汎濫してゐる。僕はふと群衆のなかに伊作の顔を見つけて呼びとめようとする。だが伊作は群衆のなかに消え失せてしまふ。ふと、僕の眼にお絹の顔が見えてくる。僕が声をかけやうとしてゐると彼女もまた群衆のなかに紛れ失せてゐる。僕は茫然とする。さうだ。僕はもつとはつきり思ひ出したい。あれは群衆なのだらうか。僕の念想なのだらうか。ふと声がする。
〈僕の頭の軟弱地帯〉僕は書物を読む。書物の言葉は群衆のやうに僕のなかに汎濫してゆく。僕は小説を考へる。小説の人間は群衆のやうに僕のなかに汎濫してゆく。僕は人間と出逢ふ。実存の人間が小説のやうにしか僕のものと連絡されない。無数の人間の思考・習癖・表情それらが群衆のやうにぞろぞろと歩き廻る。バラバラの地帯は崩れ墜ちさうだ。
〈僕の頭の湿地帯〉僕は寝そびれて鶏の声に脅迫されてゐる。魂の疵を掻きむしり、掻きむしり、僕は僕に呻吟してゆく。この仮想は僕なのだらうか。この罪ははたして僕なのだらうか。僕は空転する。僕の核心は青ざめる。めそめそとしたものが、割りきれないものが、皮膚と神経に滲みだす。空間は張り裂けさうになる。僕はたまらなくなる。どうしても僕はこの世には生存してゆけさうにない。逃げ出したいのだ。何処かへ、何処か山の奥に隠れて、ひとりで泣き暮したいのだ。ひとりで、死ぬる日まで、死ぬる日まで。
〈僕の頭の高原地帯〉僕は突然、生存の歓喜にうち顫へる。生きること、生きてゐ
前へ 次へ
全30ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング