うな疼きをおぼえた。あれは迷ひ子の郷愁なのだらうか。僕は地上の迷ひ子だつたのだらうか。さうだ、僕はもつとはつきり思ひ出せさうだ。
僕は僕の向側にゐた。子供の僕ははつきりと、それに気づいたのではなかつた。が、子供の僕は、しかしやはり振り墜されてゐる人間ではなかつたのだらうか。安らかな、穏やかな、殆ど何の脅迫の光線も届かぬ場所に安置されてゐる僕がふとどうにもならぬ不安に駆りたたれてゐた。そこから奈落はすぐ足もとにあつた。無限の墜落感が……。あんな子供のときから僕の核心にあつたもの、……僕がしきりと考へてゐるのはこのことだらうか。僕はもつとはつきり思ひ出せさうだ。
僕は僕の向側にゐる。樹木があつた。僕は樹木の側に立つて向側を眺めてゐた。向側にも樹木があつた。あれは僕が僕といふものの向側を眺めようとしだす最初の頃かもしれなかつた。少年の僕は向側にある樹木の向側に幻の人間を見た。今にも嵐になりさうな空の下を悲痛に叩きつけられた巨人が歩いてゐた。その人の額には人類のすべての不幸、人間のすべての悲惨が刻みつけられてゐたが、その人はなほ昂然と歩いてゐた。獅子の鬣《たてがみ》のやうに怒つた髪、鷲の眼のやうに鋭い目、その人は昂然と歩いてゐた。少年の僕は幻の人間を仰ぎ見ては訴へてゐた。僕は弱い、僕は弱い、僕は僕はこんなに弱いと。さうだ、僕はもつとはつきり思ひ出さなければならない。僕は弱い、僕は弱い、僕は弱いといふ声がするやうだ。今も僕のなかで、僕のなかで、その声が……。自分のために生きるな。死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕のなかでまたもう一つの声がきこえてくる。
僕はソフアを立上る。僕は歩きだす。案内人は何処へ行つたのか姿が見えない。僕はひとりで、陳列戸棚の前を茫然と歩いてゐる。僕はもうこの記念館のなかの陳列戸棚を好奇心で覗き見る気は起らない。僕の想像を絶したものが既に発明され此処に陳列してあるとしても、はたしてこれは僕の想像を絶したものであらうか。そのものが既に発明されて此処に陳列してあること。陳列されてあること、陳列してあるといふこと、そのことだけが僕の想像を絶したことなのだ。僕は憂鬱になる。僕は悲惨になる。自分で自分を処理できない狂気のやうに、それらは僕を苦しめる。僕はひとり暗然と歩き廻つて、自分の独白にきき入る。泉。泉。泉こそは……
さうだ、泉こそはかすかに、か
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