めらいがちに進んでゆく。突然、光はさッと地上に飛びつく。地上の一切がさッと変形される。街は変形された。が、今、家屋の倒壊がゆるゆると再びある夢のような速度で進行を繰返している。僕は僕を探す。僕はいた。あそこに……。僕は僕に動顛《どうてん》する。僕は僕に叫ぶ。(虚妄《きょもう》だ。妄想だ。僕はここにいる。僕はあちら側にいない。僕はここにいる。僕はあちら側にはいない)僕は苦しさにバタバタし、顔のマスクを捩《も》ぎとろうとする。
と、あのとき僕の頭上に墜ちて来た真暗な塊《かたま》りのなかの藻掻《もが》きが僕の捩ぎとろうとするマスクと同じだ。僕はうめく。僕はよろよろと倒れそうになる。倒れまいとする。と、真暗な塊りのなかで、うめく僕と倒れまいとする僕と……。僕はマスクを捩ぎとろうとする。バタバタとあばれまわる。……スイッチはとめられた。やがて案内人は僕の顔からマスクをはずしてくれる。僕は打ちのめされたようにぐったりしている。案内人は僕をソファのところへ連れて行ってくれる。僕はソファの上にぐったり横《よこた》わる。
〈ソファの上での思考と回想〉
僕はここにいる。僕はあちら側にはいない。ここにいる。ここにいる。ここにいる。ここにいるのだ。ここにいるのが僕だ。ああ、しかし、どうして、僕は僕にそれを叫ばねばならないのか。今、僕の横わっているソファは少しずつ僕を慰め、僕にとって、ふと安らかな思考のソファとなってくる。……僕はここにいる。僕は向側にはいない。僕はここにいる。ああ、しかし、どうしてまだ僕はそれを叫びたくなるのか。
……ふと、僕はK病院のソファに横わってガラス窓の向うに見える楓《かえで》の若葉を見たときのことをおもいだす。あのとき僕は病気だと云われたら無一文の僕は自殺するよりほかに方法はなかったのだが……。あのとき僕は窓ガラスの向側の美しく戦《おのの》く若葉のなかに、僕はいたのではなかったかしら。その若葉のなかには死んだお前の目《ま》なざしや嘆きがまざまざと残っているようにおもえた。……僕はもっとはっきりおもいだす。ある日、お前が眺《なが》めていた庭の若竹の陽《ひ》ざしのゆらぎや、僕が眺めていたお前のかおつきを……。僕は僕の向側にもいる。僕は僕の向側にもいる。お前は生きていた。アパートの狭い一室で僕はお前の側《そば》にぼんやり坐っていた。美しい五月の静かな昼だった。鏡があった。お前の側には鏡があった。鏡に窓の外の若葉が少し映っていた。僕は鏡に映っている窓の外のほんの少しばかし見える青葉に、ふと、制し難い郷愁が湧《わ》いた。「もっともっと青葉が一ぱい一ぱい見える世界に行ってみないか。今すぐ、今すぐに」お前は僕の突飛すぎる調子に微笑した。が、もうお前もすぐキラキラした迸《ほとばし》るばかりのものに誘われていた。軽い浮々したあふるるばかりのものが湧いた。一人の人間に一つの調子が湧くとき、すぐもう一人の人間にその調子がひびいてゆくこと、僕がふと考えているのはこのことなのだろうか。
僕はもっとはっきり思い出せそうだ。僕は僕の向側にいる。鏡があった。あれは僕が僕というものに気づきだした最初のことかもしれなかった。僕は鏡のなかにいた。僕の顔は鏡のなかにあった。鏡のなかには僕の後の若葉があった。ふと僕は鏡の奥の奥のその奥にある空間に迷い込んでゆくような疼《うず》きをおぼえた。あれは迷《ま》い子《ご》の郷愁なのだろうか。僕は地上の迷い子だったのだろうか。そうだ、僕はもっとはっきり思い出せそうだ。
僕は僕の向側にいた。子供の僕ははっきりと、それに気づいたのではなかった。が、子供の僕は、しかしやはり振り墜《おと》されている人間ではなかったのだろうか。安らかな、穏やかな、殆《ほとん》ど何の脅迫の光線も届かぬ場所に安置されている僕がふとどうにもならぬ不安に駆りたてられていた。そこから奈落《ならく》はすぐ足もとにあった。無限の墜落感が……。あんな子供のときから僕の核心にあったもの、……僕がしきりと考えているのはこのことだろうか。僕はもっとはっきり思い出せそうだ。
僕は僕の向側にいる。樹木があった。僕は樹木の側に立って向側を眺めていた。向側にも樹木があった。あれは僕が僕というものの向側を眺めようとしだす最初の頃かもしれなかった。少年の僕は向側にある樹木の向側に幻の人間を見た。今にも嵐《あらし》になりそうな空の下を悲痛に叩《たた》きつけられた巨人が歩いていた。その人の額には人類のすべての不幸、人間のすべての悲惨が刻みつけられていたが、その人はなお昂然《こうぜん》と歩いていた。獅子《しし》の鬣《たてがみ》のように怒った髪、鷲《わし》の眼のように鋭い目、その人は昂然と歩いていた。少年の僕は幻の人間を仰ぎ見ては訴えていた。僕は弱い、僕は弱い、僕は僕はこん
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