なに弱いと。そうだ、僕はもっとはっきり思い出さなければならない。僕は弱い、僕は弱い、僕は弱いという声がするようだ。今も僕のなかで、僕のなかで、その声が……。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕のなかでまたもう一つの声がきこえてくる。
僕はソファを立上る。僕は歩きだす。案内人は何処《どこ》へ行ったのかもう姿が見えない。僕はひとりで、陳列戸棚《ちんれつとだな》の前を茫然《ぼうぜん》と歩いている。僕はもうこの記念館のなかの陳列戸棚を好奇心で覗《のぞ》き見る気は起らない。僕の想像を絶したものが既に発明され此処《ここ》に陳列してあるとしても、はたしてこれは僕の想像を絶したものであろうか。そのものが既に発明されて此処に陳列してあること、陳列されてあること、陳列してあるということ、そのことだけが僕の想像を絶したことなのだ。僕は憂鬱《ゆううつ》になる。僕は悲惨になる。自分で自分を処理できない狂気のように、それらは僕を苦しめる。僕はひとり暗然と歩き廻って、自分の独白にきき入る。泉。泉。泉こそは……
そうだ、泉こそはかすかに、かすかな救いだったのかもしれない。重傷者の来て呑《の》む泉。つぎつぎに火傷者の来て呑む泉。僕はあの泉あるため、あの凄惨《せいさん》な時間のなかにも、かすかな救いがあったのではないか。泉。泉。泉こそは……。その救いの幻想はやがて僕に飢餓が迫って来たとき、天上の泉に投影された。僕はくらくらと目くるめきそうなとき、空の彼方《かなた》にある、とわの泉が見えて来たようだ。それから夜……宿なしの僕はかくれたところにあって湧きやめない、とわの泉のありかをおもった。泉。泉。泉こそは……。
僕はいつのまにか記念館の外に出て、ふらふら歩き廻っている。群衆は僕の眼の前をぞろぞろと歩いているのだ。群衆はあのときから絶えず地上に汎濫《はんらん》しているようだ。僕は雑沓《ざっとう》のなかをふらふら歩いて行く。僕はふらふら歩き廻っている。僕にとって、僕のまわりを通りこす人々はまるで纏《まとま》りのない僕の念想のようだ。僕の頭のなか、僕の習癖のなか、いつのまにか、纏りのない群衆が氾濫している。僕はふと群衆のなかに伊作の顔を見つけて呼びとめようとする。だが伊作は群衆のなかに消え失せてしまう。ふと、僕の眼にお絹の顔が見えてくる。僕が声をかけようとしていると彼女もまた群衆のなかに紛《まぎ》れ失せている。僕は茫然とする。そうだ、僕はもっとはっきり思い出したい。あれは群衆なのだろうか。僕の念想なのだろうか。ふと声がする。
〈僕の頭の軟弱地帯〉 僕は書物を読む。書物の言葉は群衆のように僕のなかに汎濫してゆく。僕は小説を考える。小説の人間は群衆のように僕のなかに汎濫してゆく。僕は人間と出逢《であ》う。実在の人間が小説のようにしか僕のものと連結されない。無数の人間の思考・習癖・表情それらが群衆のようにぞろぞろと歩き廻る。バラバラの地帯は崩《くず》れ墜《お》ちそうだ。
〈僕の頭の湿地帯〉 僕は寝そびれて鶏の声に脅迫されている。魂の疵《きず》を掻《か》きむしり、掻きむしり、僕は僕に呻吟してゆく。この仮想は僕なのだろうか。この罪ははたして僕なのだろうか。僕は空転する。僕の核心は青ざめる。めそめそとしたものが、割りきれないものが、皮膚と神経に滲《にじ》みだす。空間は張り裂けそうになる。僕はたまらなくなる。どうしても僕はこの世には生存してゆけそうにない。逃げ出したいのだ。何処かへ、何処か山の奥に隠れて、ひとりで泣き暮したいのだ。ひとりで、死ぬる日まで、死ぬる日まで。
〈僕の頭の高原地帯〉 僕は突然、生存の歓喜にうち顫《ふる》える。生きること、生きていること、小鳥が毎朝、泉で水を浴びて甦《よみがえ》るように、僕のなかの単純なもの、素朴なもの、それだけが、ただ、僕を爽《さわ》やかにしてくれる。
〈僕の頭の……〉
〈僕の頭の……〉
〈僕の頭の……〉
僕には僕の歌声があるようだ。だが、僕は伊作を探《さが》しているのだ。伊作も僕を探しているのだ。それから僕はお絹を探しているのだ。お絹も僕を探そうとする。僕は伊作を知っている。僕はお絹を知っている。しかし伊作もお絹も僕の幻想、僕の乱れがちのイメージ、僕の向側にあるもの、僕のこちら側にあるもの……。ふと声がしだした。伊作の声が僕にきこえた。
〈伊作の声〉
世界は割れていた。僕は探していた。何かをいつも探していたのだ。廃墟《はいきょ》の上にはぞろぞろと人間が毎日歩き廻った。人間はぞろぞろと歩き廻って何かを探していたのだろうか。新しく截《き》りとられた宇宙の傷口のように、廃墟はギラギラ光っていた。巨《おお》きな虚無の痙攣《けいれん》は停止したまま空間に残っていた。崩壊した物質の堆積《たいせき》の下や、割れ
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