たコンクリートの窪《くぼ》みには死の異臭が罩《こも》っていた。真昼は底ぬけに明るくて悲しかった。白い大きな雲がキラキラと光って漾《ただよ》った。朝は静けさゆえに恐しくて悲しかった。その廃墟を遠くからとりまく山脈や島山がぼんやりと目ざめていた。夕方は迫ってくるもののために佗《わび》しく底冷えていた。夜は茫々として苦悩する夢魔の姿だった。人肉を啖《くら》いはじめた犬や、新しい狂人や、疵だらけの人間たちが夢魔に似て彷徨《ほうこう》していた。すべてが新しい夢魔に似た現象なのだろうか。廃墟の上には毎日人間がぞろぞろと歩き廻った。人間が歩き廻ることによって、そこは少しずつ人間の足あとと祈りが印されて行くのだろうか。僕も群衆のなかを歩き廻っていたのだ。復員して戻ったばかりの僕は惨劇の日をこの目で見たのではなかった。だが、惨劇の跡の人々からきく悲話や、戦慄《せんりつ》すべき現象はまだそこここに残っていた。一瞬の閃光《せんこう》で激変する人間、宇宙の深底に潜む不可知なもの……僕に迫って来るものははてしなく巨大なもののようだった。だが、僕は揺すぶられ、鞭《むち》打たれ、燃え上り、塞《せ》きとめられていた。家は焼け失せていたが、父母と弟たちは廃墟の外にある小さな町に移住していた。復員して戻ったばかりの僕は、父母の許《もと》で、何か忽《たちま》ち塞きとめられている自分を見つけた。今は人間が烈《はげ》しく喰《く》いちがうことによって、すべてが塞きとめられている時なのだろうか。だが、僕は昔から、殆どもの心ついたばかりの頃から、揺すぶられ、鞭打たれ、燃え上り、塞きとめられていたような記憶がする。僕は突抜けてゆきたくなるのだ。僕は廃墟の方をうろうろ歩く。僕の顔は何かわからぬものを嚇《かっ》と内側に叩きつけている顔になっている。人間の眼はどぎつく空間を撲《なぐ》りつける眼になっている。のぞみのない人間と人間の反射が、ますますその眼つきを荒っぽくさせているのだろうか。めらめらの火や、噴《ふ》きあげる血や、捩《も》がれた腕や、死狂う唇《くちびる》や、糜爛《びらん》の死体や、それらはあった、それらはあった、人々の眼のなかにまだ消え失せてはいなかった。鉄筋の残骸《ざんがい》や崩れ墜ちた煉瓦《れんが》や無数の破片や焼け残って天を引裂こうとする樹木は僕のすぐ眼の前にあった。世界は割れていた。割れていた、恐しく割れていた。だが、僕は探していたのだ。何かはっきりしないものを探していた。どこか遠くにあって、かすかに僕を慰めていたようなもの、何だかわからないとらえどころのないもの、消えてしまって記憶の内側にしかないもの、しかし空間から再びふと浮び出しそうなもの、記憶の内側にさえないが、嘗《かつ》てたしかにあったとおもえるもの、僕はぼんやり考えていた。
 世界は割れていた。恐しく割れていた。だが、まだ僕の世界は割れてはいなかったのだ。まだ僕は一瞬の閃光を見たのではなかった。僕はまだ一瞬の閃光に打たれたのではなかった。だが、とうとう僕の世界にも一瞬の大混乱がやって来た。そのときまで僕は何にも知らなかった。その時から僕の過去は転覆してしまった。その時から僕の記憶は曖昧《あいまい》になった。その時から僕の思考は錯乱して行った。知らないでもいいことを知ってしまったのだ。僕は知らなかった僕に驚き、僕は知ってしまった僕に引裂かれる。僕は知ってしまったのだ。僕は知ってしまったのだ。僕の母が僕を生んだ母とは異《ちが》っていたことを……。突然、知らされてしまったのだ。突然?……だが、その時まで僕はやはりぼんやり探していたのかもしれなかった。叔父《おじ》の葬式のときだった。壁の落ち柱の歪《ゆが》んだ家にみんなは集っていた。そのなかに僕は人懐《ひとなつ》こそうな婦人をみつけた。前に一度、僕が兵隊に行くとき駅までやって来て黙ったまま見送ってくれた婦人だった。僕は何となく惹《ひ》きつけられていた。叔父の死骸が戸板に乗せられて焼場へ運ばれて行く時だった。僕はその婦人とその婦人の夫と三人で人々から遅れがちに歩いていた。その婦人も婦人の夫も僕は何となく心惹かれたが、僕は何となく遠い親戚《しんせき》だろう位に思っていた。突然、婦人の夫が僕に云った。
「君ももう知っているのだね、お母さんの異うことを」
 不思議なこととは思ったが、僕は何気なく頷《うなず》いた。何気なく頷いたが、僕は閃光に打たれてしまっていたのだ。それから僕はザワザワした。揺れうごくものがもう鎮《しず》まらなかった。それから間もなく僕の探求が始った。僕はその人たちの家をはじめてこっそり訪《たず》ねて行った。山の麓《ふもと》にその人たちの仮寓《かぐう》はあった。それから僕は全部わかった。あの婦人は僕の伯母《おば》、死んだ僕の母の姉だったのだ。僕の母は僕が
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