つくものから離れられなかった。僕は焼けのこった東京の街の爽《さわ》やかな鈴懸《すずかけ》の朝の鋪道《ほどう》を歩いた。鈴懸は朝ごとに僕の眼をみどりに染め、僕の眼は涼しげなひとの眼にそそいだ。僕の眼は朝ごとに花の咲く野山のけはいをおもい、僕の耳は朝ごとにうれしげな小鳥の声にゆれた。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かして僕を感動させるものがあるなら、それはみなお前たちの嘆きのせいだ。僕のなかで鳴りひびく鈴、僕は鈴の音にききとれていたのだが……。
 だが、このふらふらの揺れかえる、揺れかえった後の、また揺れかえりの、ふらふらの、今もふらふらと揺れかえる、この空間は僕にとって何だったのか。めらめらと燃えあがり、燃え畢《おわ》った後の、また燃えなおしの、めらめらの、今も僕を追ってくる、この執拗《しつよう》な焔《ほのお》は僕にとって何だったのか。僕は汽車から振落されそうになる。僕は電車のなかで押つぶされそうになる。僕は部屋を持たない。部屋は僕を拒む。僕は押されて振落されて、さまよっている。さまよっている。さまよっている。さまよっているのが人間なのか。人間の観念と一緒に僕はさまよっている。
 人間の観念。それが僕を振落し僕を拒み僕を押つぶし僕をさまよわし僕に喰《く》らいつく。僕が昔僕であったとき、僕がこれから僕であろうとするとき、僕は僕にピシピシと叩《たた》かれる。僕のなかにある僕の装置。人間のなかにある不可知の装置。人間の核心。人間の観念。観念の人間。洪水のように汎濫《はんらん》する言葉と人間。群衆のように雑沓《ざっとう》する言葉と人間。言葉。言葉。言葉。僕は僕のなかにある ESSAY ON MAN の言葉をふりかえる。

[#ここから2字下げ]
死について  死は僕を生長させた
愛について  愛は僕を持続させた
孤独について  孤独は僕を僕にした
狂気について  狂気は僕を苦しめた
情欲について  情欲は僕を眩惑《げんわく》させた
バランスについて  僕の聖女はバランスだ
夢について  夢は僕の一切だ
神について  神は僕を沈黙させる
役人について  役人は僕を憂鬱《ゆううつ》にした
花について  花は僕の姉妹たち
涙について  涙は僕を呼びもどす
笑について  僕はみごとな笑がもちたい
戦争について  ああ戦争は人間を破滅させる
[#ここで字下げ終わり]

 殆《ほとん》ど絶え間なしに妖《あや》しげな言葉や念想が流れてゆく。僕は流されて、押し流されてへとへとになっているらしい。僕は何年間もう眠れないのかしら。僕の眼は突張って、僕の空間は揺れている。息をするのもひだるいような、このふらふらの空間に……。ふと、揺れている空間に白堊《はくあ》の大きな殿堂が見えて来る。僕はふらふらと近づいてゆく。まるで天空のなかをくぐっているように……。大きな白堊の殿堂が僕に近づく。僕は殿堂の門に近づく。天空のなかから浮き出てくるように、殿堂の門が僕に近づく。僕はオベリスクに刻《ほ》られた文字を眺める。僕は驚く。僕は呟《つぶや》く。
[#天から2字下げ]原子爆弾記念館
 僕はふらふら階段を昇ってゆく。僕は驚く。僕は呟く。僕は訝《いぶか》る。階段は一歩一歩僕を誘い、廊下はひっそりと僕を内側へ導く。ここは、これは、ここは、これは……僕はふと空漠《くうばく》としたものに戸惑っている。コトコトと靴音がして案内人が現れる。彼は黙って扉を押すと、僕を一室に導く。僕は黙って彼の後についてゆく。ガラス張りの大きな函《はこ》の前に彼は立留る。函の中には何も存在していない。僕は眼鏡と聴音器の連結された奇妙なマスクを頭から被《かぶ》せられる。彼は函の側《そば》にあるスイッチを静かに捻《ひね》る。……突然、原爆直前の広島市の全景が見えて来た。
 ……突然、すべてが実際の現象として僕に迫って来た。これはもう函の中に存在する出来事ではなさそうだった。僕は青ざめる。飛行機はもう来ていた。見えている。雲のなかにかすかな爆音がする。僕は僕を探《さが》す。僕はいた。僕はあの家のあそこに……。あのときと同じように僕はいた。僕の眼は街の中の、屋根の下の、路の上の、あらゆる人々の、あの時の位置をことごとく走り廻る。僕は叫ぶ。(厭《いや》らしい装置だ。あらゆる空間的角度からあらゆる空間現象を透視し、あらゆる時間的速度であらゆる時間的進行を展開さす呪《のろ》うべき装置だ。恥ずべき詭計《きけい》だ。何のために、何のために、僕にあれをもう一度叩きつけようとするのだ!)
 僕は叫ぶ。僕の眼に広島上空に閃《ひらめく》く光が見える。光はゆるゆると夢のように悠然《ゆうぜん》と伸び拡《ひろが》る。あッと思うと光はさッと速度を増している。が、再び瞬間が細分割されるように光はゆるゆるとた
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