T橋の下に来た。雄二はまた顔をあげて橋の裏を眺めた。待ち兼ねてゐた橋も過ぎると、行手はまた広々とした水の上だつた。H山は向岸の屋根の上にすつかり形を現した。濃い緑の松が重なり合つてゐて、その松の一本一本は揺れながら叫びさうであつた。舟が進んで行くとH山はいよいよ正面のところをはつきり見せて来た。山の下の家並は見る間に早く移り変つて行くのに、山はなかなか終らうとしなかつた。たうとう雄二はそれで山のない方の岸へ目をやつた。すると、堤は何時の間にか低くなつてゐて、家も疎な、広々とした眺めだつた。別荘らしい庭のある家や、草原や何にもない白い路が緩く入替つて現れた。それから電信棒がしつこく堤に添つて並んでゐた。
 雄二は何時までも同じところを進んでゐるやうな気持がして、次第に耐へがたくなつた。ふと気がつくと、もうH山は遠のいてゐた。しかしもうどちらの岸が自分の家の方角なのか、雄二はすつかりわからなかつた。
「恰度潮時はいいだらうな」と云ふ父の声が遠くでぼんやり聞えた。すると船頭が何か応へたらしかつたが、雄二ははつきり憶えなかつた。急に冷たい風が雄二の頬を掠めた。「あ、雄二の顔、真青」と、その時母
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