のやうな船は、岸の方へ続く板の橋をもつてゐて、そして船の入口のところの手摺に生きてる鴉が一羽縛りつけてあつた。その船を過ぎると、M神社の岸であつた。そこの岸には家が建つてゐないので、広々とした空が少し霞んでゐた。そして小さな石の鳥居や神社の甍や松が透いて見えた。雄二はお祭の時行つて賑やかだつたのを憶えてゐたが、昼のM神社はひつそりとしてゐた。そして石段のところには汚れた船が横づけになつてゐた。
川の中に、ところどころ水が乾いて白い砂の出てゐるところがあつた。水は次第に浅くなつて、覗くと底の砂や影の朧な蜆貝が見えた。砂も石塊も水と一緒にキラキラと速く後へ飛んでゆくやうに思へた。雄二はちよつと水に手を浸してみたが、冷たかつたのですぐ収め、今度はM神社の岸とは反対の方に目を向けた。すると、向岸の家並のなかに一軒赤い煉瓦の小家があつて、塀のうちに紅い花が咲いてゐた。それらの家並の屋根瓦の上に、さつきからH山が覗いてゐるのを雄二はやつと気がついた。低い小さなH山はぽつと屋根の上に持つて来て置いたやうな恰好だつた。山の輪廓はいくらか霞んでゐたが、たしかに雄二に今見られたので、ちよつと喫驚したやうな貌をした。それで雄二もびつくりしたやうに瞬いて、顔をそむけた。恰度、その時、舟の五六間さきを家鴨がすつと泳いで行つた。雄二がハツとして、家鴨の群を見やると六七羽の家鴨は岸の方の医院の石段へ集まつてしまつた。水に浮んでゐるところをもつとよく見たかつたのだが、もう家鴨は川へは降りて来なかつた。そして、雄二が残念がつてゐるうちに、もう舟は橋へ来てゐた。
I橋を潜り抜けると、H山の見える土手に火見櫓があつた。櫓の上からホースが二すぢ釣りさがつてゐるのが灰色に見えその少し向は桜並木が黒々と渦巻いてゐた。雄二の側の岸には、今、大きな柳の樹が頭髪を水に浸して、土手から屈んでゐた。その上を軽く燕が横切つた。空高く入乱れた沢山の竹竿を束ねた家が見えて来て、そこを遠ざかつてからもまだ竹竿ばかりは屋根の上に残され、白く光つた。次いて雄二の眼の前には、大きな黒い函のやうな木造の建物があつた。ガラス窓がぽかつと口を開いてゐて、その建物は何となしに雄二には寒気がした。黒い函の脚にあたる五六本の柱は無遠慮に下の川へ突立つてゐた。その黒い函は凝と堤に頑張つて、意地悪く雄二の後をつけて来た。が、やがて、他所の屋根でぱつと巧く隠されてしまつた。と、思ふとまた一寸顔を覗けたが、今度は立並ぶ材木の列ですつかり隠された。
材木は縦にも横にも空地一杯に積重ねられてゐた。そして、水のなかには大きな筏が止められてゐるのだつた。そのあたりに樹皮のついた丸太が水に浸されて、いくつも浮んでゐた。石段の側の石崖に、荒い格子の嵌つた薄暗い窓があつて、窓のすぐ下の土管から、ふと思ひ出したやうに水が流れて来た。菜の屑や藁が水と一緒に滑り落ちて来た。間もなく、材木の山も見えなくなると、石崖の上には藪がかぶさり、板屋根の荒屋が現れて来た。それにつづいて、貧しげな野菜畑と大きな鶏小屋があつた。薄暗い鶏小屋の窓からは随分沢山の鶏が首を覗けて動いてゐるのだつた。雄二はちよつと眼を瞠つた。しかし、鶏小屋はすぐに見えなくなつてしまつた。
むかふの方にぼんやりとT橋が薄い小さな影を現はして来た。その上に横はるH山には何時の間にか山のすぐ後の空に睡むさうな薄雲が棚引いてゐた。向側の土手はところどころに青葉を混ぜて同じやうな恰好の小家が並び、高い石崖はうねりながらT橋の方へ続いてゐるのだつた。そして、石崖の下はずつと水が干て、砂地になつてゐた。たまに、その砂地を歩いてゐる人の姿もぼんやりと眺められた。石崖の曲つて突出たところに大きな黄櫨の樹が聳えてゐた。あの大きな樹の前を過ぎて、まだ大分行かなければT橋にはならないのだらうと雄二は思つた。すると雄二は何か遙かな気持がして侘しくなつた。川の眺めにも見倦きたやうで、眼は少しぼんやりして来た。が、水の上を見てゐないと一そういけないやうな気持がした。船頭もほかの人も平気な顔をしてゆつくり落着いてゐた。
向ふから小さな舟がやつて来た。流れに溯つてゐるので棹を押してゐる人はつらさうだつた。雄二達の舟はすーと進んでその舟と擦違つてしまつた。雄二は振返つて擦違つた舟の方を暫く見てゐた。何にも積んでゐない舟なのになかなか進まなかつた。やがて、その舟が遠ざかつたと思ふと、大きな櫨の木の生えてゐる石崖のところを雄二達の舟は過ぎてゐた。すると思つてゐたよりも近くにT橋はもう見えてゐるのだつた。橋が近づくに随つて、欄杆の上にあるH山も近づいた。山の樹木が今ははつきりと見え出した。橋の向の方はキラキラ水面が光つてゐて、そちら側へ出ればまた景色は広々として来るらしかつた。
そのうちに舟はたうたう
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング