て、長い竹の棹を持つてゐた。舟はもうさつきの石段から大分離れてゐた。四五艘の舟やボートがまはりに浮いてゐて、今雄二達を見送るやうだつた。向岸を眺めると、上手の緑の並木の間に、石屋があつて、花崗石がキラキラ光つてゐた。その並木の上には低い山の姿が真近に見え、白い煙がしゆつしゆつと動いて行くのは今汽車が通つてゐるらしかつた。
さつきの石段は段々小さくなつて来た。石段のところは暗く見えたが、その上の路の入口は妙に明るかつた。石段に添つて、細い銀色の水が川へ注いでゐるのを雄二は今になつて気がついた。
「そら、橋へ来た」と菊子が云つた。忽ち舟は日蔭に這入つた。そして、頭の上にゴロゴロと大きな響がするので、ふり仰ぐと、恰度S橋の裏側の天井が眺められた。たしか橋の上を今荷馬車が通つてゐるらしく、ゴロゴロといふ響と一緒にパカパカと馬の蹄の音が聞えた。舟のすぐ側には怕いやうな丸太棒がぎゆつと水から突出て、橋を支へてゐた。そのうちにパツと明るい空と同時に、橋の欄杆が見え出した。誰かが欄杆に身を屈めて、舟の方を珍しげに覗き込んでゐる顔が白く小さく見えた。が、空の明るさで眩しくて、雄二の眼にははつきりとはその顔が見わけられなかつた。大吉は橋をくぐり抜けると立ててゐた叉手を振廻して一人ではしやいだ。水の上が広々として来て、潜り抜けた橋の姿全体が今は後に見えた。ドドドドドとその橋はとりとめもない呟きを残してゐた。欄杆の上の青空を自転車に乗つて走る人の白い上衣が閃いてゐた。橋の上には六七人の人影があつた。それらの人がみんな雄二の舟を見送つてゐるやうに思へた。いよいよ海へ行くのだと雄二は思つた。すると、船頭の棹の使ひ方が段々調子づいて来て、舟の速さが増して来るのだつた。棹は水に浸り砂を押しては、また水を抜けて、雫が水に落ちた。何時までもそれを見てゐると雄二は気持がだるくなるのだつた。
舟の横から水の上の日南を渡る風が吹きつけて来た。向に三角形の洲が見えて、そこから川は二岐に分れてゐるのだつた。大きな石塊のごろごろしてゐる出鼻のところには黒い杭にあたる波が白く砕けてゐて、水は青々と深さうだつた。舟はそこにはあまり近寄らないで、川の中央を進んでゐた。雄二には出鼻の方の岸がいくらか他所のやうな気がして、反対に恰度最初出発した時の方の岸が何時までも自分の家と近いのを感じた。出鼻を過ぎると向岸には同じやうな恰好の黒い格子の二階建が三四軒並んでゐたが、その家が何といふことなしに雄二には意地の悪い家のやうに思へた。そこの屋根の上から日蔭になつてゐる青空が魔のやうに覗いてゐた。そして、鏡のやうな空を黒い小鳥が横切つて行くのが、怕く思へた。雄二の家の在る方の側の岸は、家や樹木に日があたつてゐて、穏やかな眺めだつた。今、そちらの側に家並が杜切れて土手の広場が見上げられた。石崖の上は茫々と雑草が茂つてゐて、大きな樫の木は日の光を吸つてぐつたりした姿で空に聳えてゐた。すると白壁の土蔵が現れて樫の木の頭だけを空に残した。次いで枝ぶりのいい松の生えてゐる庭があつた。枳垣の透間から罌粟畑が見えた。硝子張りの二階の縁側には籐の寝椅子があつて、女の人がそこからぼんやりと川を見下してゐた。二階の軒の日覆はふわふわ動いてゐるのだつた。それから今度はまた違ふ家の二階が見えた。誰もゐないのか白い障子が立てきつてあつてアカシアの花が揺いでゐた。
そのうちに、ドドドドドと軽い響が伝はつて、K橋が見えて来た。水の上に映るK橋はドドドドと軽く揺れてゐるのだつた。雄二は自分のよく知つてゐる橋へ来たので、少し嬉しくなつた。何時も父や姉に連れられて、あのK橋の上から見下してゐたところを、これから通るのだつた。まづ、頭の上を、水道の大きな黒い管が過ぎた。それから一寸空の隙間があつて、間もなく橋の下に這入つた。橋桁を支へる石の台と台の間を舟は通つて行つた。その石の台のまはりには土があつて、黒ずんだ草が紐のやうにさがつてゐるのを雄二は不思議に思つた。水の深さを計る目盛をした白塗の棒がつき立つてゐた。その辺は深く青々としてゐた。頭の上を通つて行く下駄の音が夢のやうであつた。そして舟はK橋を抜けた。雄二は何か吻として母や皆の顔を見た。皆は黙つたまま川を眺めてゐるのだつた。日に焦けた顔をした船頭は前と変らぬ顔をしてゐた。
「気分がわるいのなら此処で下してもらふといい。」と、その時大吉は雄二にちよつと調弄ひ出した。
「馬鹿」と雄二は腹を立ててそつぽを向いた。すると向岸の橋の袂にある花嫁を描いた大きな看板が眼に映つた。その看板はこちらの岸の大学眼薬のお爺さんと対ひ合つてゐるのだつた。眼薬の看板のところには無花果の葉が黒々と茂り、石崖から水の上に影を落してゐた。間もなく、舟は牡蠣船の繋いであるところへ来た。大きな屋根のある家
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