T橋の下に来た。雄二はまた顔をあげて橋の裏を眺めた。待ち兼ねてゐた橋も過ぎると、行手はまた広々とした水の上だつた。H山は向岸の屋根の上にすつかり形を現した。濃い緑の松が重なり合つてゐて、その松の一本一本は揺れながら叫びさうであつた。舟が進んで行くとH山はいよいよ正面のところをはつきり見せて来た。山の下の家並は見る間に早く移り変つて行くのに、山はなかなか終らうとしなかつた。たうとう雄二はそれで山のない方の岸へ目をやつた。すると、堤は何時の間にか低くなつてゐて、家も疎な、広々とした眺めだつた。別荘らしい庭のある家や、草原や何にもない白い路が緩く入替つて現れた。それから電信棒がしつこく堤に添つて並んでゐた。
雄二は何時までも同じところを進んでゐるやうな気持がして、次第に耐へがたくなつた。ふと気がつくと、もうH山は遠のいてゐた。しかしもうどちらの岸が自分の家の方角なのか、雄二はすつかりわからなかつた。
「恰度潮時はいいだらうな」と云ふ父の声が遠くでぼんやり聞えた。すると船頭が何か応へたらしかつたが、雄二ははつきり憶えなかつた。急に冷たい風が雄二の頬を掠めた。「あ、雄二の顔、真青」と、その時母が喫驚したやうに注意した。雄二はぐつたり頭を屈めて、ちぢこまつてしまつた。
やがて、舟が川岸に着けられると、雄二は父に抱かれて陸に下ろされた。下駄を穿かされたかと思ふと、ふらふら目が昏んで、雄二は地面に屈んだ。そして遽かに吐気がして来た。雄二はぐつと涙が鼻の方へ流れて来た。雄二は微かな声をあげて泣き出した。
「舟に酔つたのだ、すぐなほるよ」と、父が宥めて呉れた。そして、何時の間にか小さな置座を持つて来てくれた。雄二がその上に腰を下すと、もう段々楽になつたが、何だかがつかりして不思議だつた。
間もなく船頭が俥を傭つて来た。雄二は姉に連れられて、さきに家へ帰ることになつた。
「もう大丈夫」と、菊子が訊ねると雄二は大きく頷いた。父も母も兄達もみんなが俥を見送つた。俥は用心して緩々と走つた。雄二はもうすつかり元気になつてゐた。俥は長い長い橋を渡つてゆきむかふに海が見えた。
底本:「定本原民喜全集 1」青土社
1978(昭和53)年8月1日発行
初出:「文芸汎論」
1939(昭和14)年9月号
入力:海老根勲
校正:Juki
2004年8月24日作成
2007年7月9日修正
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