します、お大切に」先生は軽く頷《うなず》きながら静かな足どりで立去ってしまった。

 日が短くなっていた。病院を出て家に戻って来るまでに、あたりは見る見るうちに薄暗くなってゆき、それが落魄《らくはく》のおもいをそそるのでもあった。薄暗い病院の廊下から表玄関へ出ると、パッと向うの空は明るかった。だが、そこの坂を下って、橋のところまで行くうちに、靄につつまれた街は刻々にうつろって行く。どこの店でも早くから戸を鎖《と》ざし、人々は黙々と家路に急いでいた。たまに灯をつけた書店があると、彼は立寄って書棚《しょだな》を眺めた。彼ははじめて、この街を訪れた漂泊者のような気持で、ひとりゆっくりと歩いていた。そうしているうちにも、何か急《せ》きたてるようなものがあたりにあった。日が暮れて路《みち》を見失った旅人の話、むかし彼が子供の頃よくきかされたお伽噺《とぎばなし》に出てくる夕暮、日没とともに忍びよる魔ものの姿、そうした、さまざまの脅《おび》え心地《ごこち》が、どこか遠くからじっと、この巷《ちまた》にも紛れ込んでくるのではあるまいか。
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……弥生《やよひ》も末の七日《なぬか》明ほ
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