《こころほう》けした旅であった。優しいはずの湖水の眺めが、まっ暗な幻影で覆《おお》われていた。殆《ほとん》ど自殺未遂者のような顔つきで、彼はそのひとり旅から戻って来た。すると、間もなく彼の妻が喀血《かっけつ》したのだった。四年前の秋のことであった。妻の病気によって、あのとき、彼は自らの命を繋《つな》ぎとめたのかもしれなかった。
久し振りに爽《さわ》やかな光線が庭さきにちらついていたが、彼は重苦しい予想で、ぐったりとしていた。再検査の紙が彼のところにも送附されて来たのだった。それは、ただ医師の診断を受けて、書込んでもらえばよかったのだが、そういうものが舞込んで来ることに、彼は容易ならぬものを感じた。彼は昨日も訪れたばかりの妻のところへ、また出掛けて行きたくなった。
街は日の光でひどく眩《まぶ》しかった。それは忽《たちま》ち喘《あえ》ぐように彼を疲らせてしまった。だが、病院の玄関に辿《たど》り着くと、朝の廊下は水のように澄んでいた。ひっそりとした扉をあけて、彼が病室の方へ這入《はい》って行くと、妻は思いがけない時刻にやって来た彼の姿を珍しげに眺め、ひどく嬉《うれ》しそうにするのであった。その紙片を見せると、妻はしばらく黙って考えていた。
「診察なら、津軽先生にしてもらえばいいでしょう」と、妻はすぐにまた晴れやかな調子にかえった。
「お天気がいいので訪《たず》ねて来てくれたのかと思ったら、そんなことの相談でしたの」と妻は軽く諧謔《かいぎゃく》をまじえだした。「御飯を食べてお帰りなさい、久し振りに旦那《だんな》さんと一緒に御飯なりと頂きましょうよ」
妻は努めて、そして無造作に、いま重苦しい考を追払おうとしていた。……赤いジャケツを着た、はち切れそうな娘が、運搬車を押して昼食を持って来た。糖尿試験食の皿と普通の皿と、ベッド・テーブルの上に並べられると、御馳走《ごちそう》のある試験食の方の皿から、普通食の皿へ、妻は箸《はし》でとって彼に頒《わか》つのだった。
翌日、約束の時間に出掛けて行くと、妻のところに立寄った津軽先生は、軽く彼に会釈して、廊下の外へ彼を伴なって行った。医局の前を通りすぎて、広い部屋に入ると、彼は上衣《うわぎ》のボタンをはずした。妻のひどく信頼している津軽先生は、指さきから、ものごしにいたるまで、静かにととのった気品があった。一度は軍医として出征したこともあるのだが、荒々しいものの、まるで感じられない人柄であった。その、いつも妻の体を調べている指さきが、いま彼の背を綿密に打診していた。すると、かすかに甘えたいような魔術が読みとられた。津軽先生はペンを執って、再検査の用紙の胸部疾患の欄に二三行書込んで行った。「脚気《かっけ》の気味もあるようですね」と先生は呟いた。
診察がすむと、彼はぐったりして、廊下の方へ出て行ったが、眼のまえの空間が茫と疼く疲労感で一杯になっていた。それから、妻の病室へ戻って来ると、パッと何か渦巻く色彩があった。いま妻のベッドの脇《わき》には、近所の細君が二人づれで見舞に来ていた。テーブルの上に菊の花が乱れた儘《まま》になっていた。いつもくすんだ身なりをしている隣組の女たちの、こうした、たまの盛装が、この部屋の空気を落着かなくしているのだろうか。……「ひどい南風ですね」と細君のひとりは窓の方を眺めながら云った。そういえば、リノリウムの廊下まで、べとべとと湿気ていたし、ガラス窓の外は茫と白くふくれ上って揺れかえしているのであった。見舞客が帰って行くと、妻はぐったりした顔つきで、枕に頭を沈めた。その頬《ほお》はかすかに火照っているようであった。
その南風が吹き募ると、海と空が茫と脹《ふく》らんで白く燃え上るようであった。どうかすると真夏よりも酷《きび》しい光線で野の緑が射とめられていた。落着のないクラスの生徒たちは、この風が吹きまくるとき、ことに騒々しかった。彼はときどき教壇の方から眼を運動場のはてにある遠い緑の塊《かたま》りに対《む》けていた。舞上る砂埃《すなぼこり》に遮られて、それは森とも丘とも見わけのつかぬ茫漠とした眺めではあったが、あの混濁のなかに一つの清澄が棲《す》んでいて、それが頻《しき》りに向うから彼の魂を誘っているようだった。すぐ表の坂を轟々《ごうごう》と戦車が通りすぎて行った。すると、かぼそい彼の声は騒音と生徒の喚《わめ》きで、すっかり捩《も》ぎとられてしまうのであった。
その風が鎮《しず》まると、漸《ようや》く秋らしい青空が眺められた。澄んだ午後の光線は電車の中にも流れ込んでいた。痩《や》せ細った老人が萎《しな》びたコスモスの花を持って、恐しい顔つきのまま座席に蹲《うずくま》っている。ある小駅につづく露次では、うず高くつみ重ねられた芋俵をめぐって、人が蟻《あり》のように
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