ったような安らかさと、これから始ろうとする試煉《しれん》にうち克《か》とうとする初々《ういうい》しさが、痩《や》せた妻の身振りのなかにぱっと呼吸《いき》づいていた。だが、彼はひとり置去りにされたように、とぼとぼと日が暮れて家に戻って来たのだった。
 この時から、二つにたち割られた場所のなかで、彼の逍遥《しょうよう》がはじまった。隔日に学校へ通勤している彼は、休みの日を午後から病院へ出掛けて行くのだったが、どうかすると、学校の帰りをそのまま立寄ることもあった。巷《ちまた》で運よく見つけた電熱器を病室の片隅に取つけると、それで紅茶も沸かせた。ベッド脇に据えつけられている小さな戸棚《とだな》には、林檎《りんご》やバタがあった。いつのまにか、そこは居心地《いごこち》のいい場所になっていたのだ。
 いく日も雨が降りつづいた。粗末な学校の廊下も窓もびっしりと湿り、稀《ま》れにしかやって来ない電車は、これも雨に痛めつけられていたし、電車の窓の外に見える野づらや海も茫《ぼう》として色彩を失っていた。だが、高台の上に立つ、大きな病院の建物は、牢固《ろうこ》な壁や整った窓が下界の雨をすっかり遮《さえぎ》っていた。
「あなたが学校まで歩いてゆく路《みち》と、家からこの病院まで来る道とどちらが遠いの」と妻はたずねた。「同じ位だね」と彼がこたえると「まあ、そんなに遠い路をこれまで歩いていたのですか」と妻は彼がこの二年間通っていた路の長さがはじめて分ったような顔つきであった。その路の話なら、これまで寝ている妻に何度も語っていたし、彼にとってはもう慣れていて左程苦痛ではなかった。妻はもっといろんなことを訊《たず》ねたいような顔つきで、留守にした家のこまごました事柄が絶えず眼さきにちらついているようであった。だが、彼はそうした妻の顔を眺めながら、つきつめた想いで、何かはてしないものを考えていた。いつも二人は相対したまま、相手のなかに把《とら》えどころのない解答を求めあっているのであった。そうして時間はすぐに過ぎて行った。夕ぐれが近づいて、立去る時刻が迫ると、彼は静かなざわめきに急《せ》き立てられるような気がした。窓の外に雨はまだ絶望的に降りつのっていた。
「バスでお帰りなさい、バスの時間表がここにあるから、も少し待っていればいいでしょう」と妻は雨に濡《ぬ》れて行こうとする彼をひき留めた。
 停車場とその病院の間を往来するバスが、病院の玄関に横づけにされた。すると、折鞄《おりかばん》を抱《かか》えた若い医師が二人、彼の座席のすぐ側《そば》に乗込んで腰を下ろした。雨はバスの屋根を洗うように流れ、窓の隙間《すきま》からしぶきが吹込んだ。「よく降りますね、今年は雨の豊年でしょうか」と医師たちは身を縮めて話し合っていた。やがて、バスは揺れて、真暗な坂路を走って行った。
 銀行の角でバスを降りると、彼はずぶ濡れの鋪道《ほどう》を電車駅の方へ歩いた。雨に痛めつけられた人々がホームにぼんやり立並んでいた。次の停留場で電車を降りると、袋路の方は真暗であった。彼はその真暗な奥の方へとっとと歩いて行った。
 さきほどから、何か真暗な長いもののなかを潜《くぐ》り抜けて行くような気持が引続いていた。よく降りますね、今年は雨の豊年でしょうか、――そういう言葉がふと非力な人間の呟《つぶや》きとして甦《よみがえ》って来るのであった。そういえばバスや電車の席にぐったりと凭掛《よりかか》っている人間の姿も、何か空漠《くうばく》としたものに身を委《ゆだ》ねているようである。日々のいとなみや、動作まですべて、眼には見えない一本の糸によってあやつられているのであろうか。彼は書斎のスタンドを捻《ひね》り、椅子に凭掛ったまま、屋根の上を流れる雨の音をきいていた。病室の妻や、病院の姿が、真暗な雨のなかに点《とも》る懐《なつか》しい小さな灯のようにおもえた。

 ながい間、書斎の壁に貼《は》りつけていた火口湖の写真が、いつ、どこへ仕舞込んでしまったものか、もう見あたらなかった。が彼はよく、その火口湖の姿をおもい浮べながら、過ぎ去った日のことを考えた。それは彼が妻とはじめてその湖水のほとりを訪れた時、何気なく購《か》い求めた写真であった。毎朝その写真の湖水のところに、窓から射《さ》し込む柔かな陽光が縺《もつ》れ、それをぼんやり甘えた気持で眺める彼であった。……彼は山の中ほどで、息が切なくなっていた。すると妻が彼の肩を軽く叩《たた》いてくれた。それから、ふと思いがけぬところに、バスの乗場があり、バスは滑《なめ》らかに山霧のなかを走った。――それはまだ昨日の出来事のように鮮《あざや》かであった。だが、二度目にひとりで、その同じ場所を訪れた時の記憶もヒリヒリと眼のまえに彷徨《さまよ》っていた。みじめな、孤独な、心呆
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