秋日記
原民喜

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)衝立《ついたて》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)空|朧々《ろうろう》として

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)[#「左部はさんずい、中部は景、右部は頁」、第3水準1−87−32、30−7]
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 緑色の衝立《ついたて》が病室の内部を塞《ふさ》いでいたが、入口の壁際《かべぎわ》にある手洗の鏡に映る姿で、妻はベッドに寝たまま、彼のやって来るのを知るのだった。一号室の扉のところまで来ると、奥にいる妻の気配や、そちらへ近づいて行こうとする微《かす》かに改まった気分を意識しながら、衝立をめぐって、ベッドのところへ彼がやって来ると、妻はいたずらっぽい微笑で彼を迎える。すると彼には一咋日ここを訪れた時からの隔りがたちまち消えてしまう。小さな卓の花瓶《かびん》にコスモスの花が、紅《あか》い小さなボンボンダリアと一緒に挿《さ》してあるのが眼に留ると、彼は一昨日は見なかったダリアの花に、ささやかな変化を見出《みいだ》すのではあったが、午後の明るい光線と澄んだ空気は窓の外から、今もこちら側を覗《のぞ》いている。……
 ベッドの脇《わき》の椅子に腰をおろした彼は、かえって病人のような気持がするのだった。午後になると微熱が出て、眼にうつる世界がかすかに消耗されてゆく、そうすると、彼には外界もそれを映すものも冴《さ》えて美しくなった。彼の棲《す》んでいる世界はいま奇妙な結晶体であった。彼はその限られた世界の中を滑《すべ》り歩いていたし、そうして、妻の病室へやって来る時、その世界はいちばん透きとおっていた。
 白いカバアの掛った掛蒲団《かけぶとん》の上に、小豆色《あずきいろ》の派手な鹿子絞《かのこしぼり》の羽織がふわりと脱捨ててあるのが、雪の上の落葉のようにあざやかに眼にうつるが、枕《まくら》に顔を沈めている妻は、その顔には何か冴《さ》え冴《ざ》えしたものがあった。二日まえのことだが、彼はこの部屋が薄暗くなり廊下の方がざわつく頃まで、じっと妻の言葉をきいていた。そして、結局しょんぼりと廊下の外へ出て行った。すると翌日、病院へ使いに行った女中が妻の手紙を持って戻り彼に手渡した。小さく折畳んだ便箋《びんせん》に鉛筆で細かに、こまかな心づかいが満たされていた。(あなたがしょんぼりと廊下の方へ出てゆかれた後姿を見送って、おもわず涙が浮びました。体の方は大丈夫なのでしょうね、余計な心配をかけて済みませんでした、……)努めて無表情に読過そうとしたが、彼は底の方で疼《うず》くようなものを感じた。
 こうした手紙をもらうようになったのか――それは彼にとっては、やはり新鮮なおどろきであった。妻は入院の費用にあてるため、郷里に置いてある箪笥《たんす》を本家で買いとってもらうことを相談した。彼がさびしく同意すると、妻は寝たままで、一頻《ひとしき》り彼の無能を云うのであった。十年前嫁入道具の一つとして郷里の土蔵に持込まれたまま、一度も使用されず、その箪笥がひと手に渡るのは彼にとっても身を削《そ》がれるような気持だった。だが、身の落目をとりかえすため奮然として闘《たたか》うてだてが今あるのだろうか。彼は妻の言葉を聞きながら、薄暗くなってゆく窓の外をぼんやり眺《なが》めていた。おぼろな空のむこうに、遙《はる》かな暗い海のはてに、火を吐いて沈んでゆく艨艟《もうどう》や、熱い砂地に晒《さら》されている白骨の姿が、――それは、はっきりした映像としてではなく、何か凍《い》てついた暗雲のようにいつも心を翳《かげ》らせている。それから、何気ない日々のくらしも、彼の周囲はまだ穏かではあったが、見えない大きい力によって、刻々に壊《こわ》されているのではないか。どうにもならない転落の中間に、ぽつんと放り出された二人ではないか。そうおもいながら、あのとき彼は妻にかえす言葉を喪《うしな》っていたのだが……。書斎の椅子にぐったりとして、彼は女中が持って帰った妻の手紙を、その小さな紙片をもとどおりに折畳んだ。悲壮がはじまっていた。そしてそれは、ひっそりとしているのであった。
 その年の秋も、いらだたしい光線のなかに雨雲が引裂かれていた。そうした、ある落着かない気分の夕刻近く、彼は妻に附添ってその大きな病院の門をくぐった。二階の廊下をいく曲りして静かな廊下に出たところに一号室があった。その部屋の窓からは、遙かに稲田や人家が展望された。前にいた人が残して行ったらしい大きな古びた財布《さいふ》が片隅《かたすみ》にあった。一わたり部屋を見まわすと、すぐに妻はベッドに臥《ふ》さった。はじめて落着く場所にかえ
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