するのだった。それは彼が少年の頃、亡《な》くなった姉から形見に貰《もら》ったものであった。二十年も前のことだが、死ぬ前、姉は県病院に入院していた。二度ばかり見舞に行って、それきり姉とは逢えなかったのだが、この姉の追憶はいつも彼を甘美な少年の魂に還《かえ》らせていた。そういえば、彼が妻の顔をぼんやり眺《なが》めながら、この頃何かしきりに考えていたのはそのことだったのだろうか。静かな病室のなかで、うっとりと、ふと何か口をついて、喋《しゃべ》りたくなりながら、口には出なかったのは、そのことだったのだろうか。
真昼の電車の窓から海岸の叢《くさむら》に白く光る薄《すすき》の穂が見えた。砂丘が杜切《とぎ》れて、窪地《くぼち》になっているところに投げ出されている叢だったが、春さきにはうらうらと陽炎《かげろう》が燃え、雲雀《ひばり》の声がきこえた。その小景にこころ惹《ひ》かれ、妻に話したのも、ついこのあいだのようだったが、そこのところが今、白い穂で揺れていた。薄は気がつくと、しかし沿線のいたるところにあった。電車の後方の窓から見ると、遙《はる》かにどこまでも遠ざかってゆく線路のまわりにチラチラと白いものが閃《ひらめ》いた。ある朝、学校へ出掛けて行く彼は、電車の窓に迫って来る崖《がけ》の上に、さわさわと露に揺れる丈《たけ》高い草を刈り取っている女の姿を見た。崖下の叢もうっすらと色づいていた。それから間もなく、田のあちこちが黒いおもてを現して来た。刈あとの切株のほとりに、ふと大きな牛の胴を見ることもあった。時雨《しぐれ》に濡《ぬ》れて、ある駅から乗込んだ画家は、すぐまた次の駅で降りて行った。そうした情景を彼もまた画家のような気持で眺めるのだった。
それから、ある午後、彼が教室で授業していると、ふと窓の外の方があやしく気にかかった。リーダーを持ったまま、彼は硝子窓《ガラスまど》の方へ注意を対《む》けていた。ひょろひょろの銀杏《いちょう》の梢《こずえ》に黄金色の葉がヒラヒラしているのだ。あ、あれだろうか、……何とも名ざし出来ない、美しい透明な世界がすぐそこにあるようだし、それはひっそりととおりすぎてゆくのであった。
彼はそっと窓の方の扉をあけて、いつものベランダに出てみた。冷たい空気が頬にあたり、すぐ真下に見える鈴懸《すずかけ》の並木がはっと色づいていた。と、何かヒラヒラするもの
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