がうごき、無数の落葉が眼の奥で渦巻いた。いま建物の蔭《かげ》から、見習看護婦の群が現れると、つぎつぎに裏門の方へ消えて行くのだった。その宿舎へ帰って行くらしい少女たちの賑《にぎ》やかな足並は、次第にやさしい祈りを含んでいるようにおもえた。と、この大きな病院全体が、ふと彼には寺院の幻想となっていた。高台の上に建つこの大伽藍《だいがらん》は、はてしない天にむかって、じっと祈りを捧《ささ》げているのではないか。明るい空気のなかに、かすかな靄《もや》が顫《ふる》えながら立罩《たちこ》めてくるようだった。やがて彼は病室へ戻って来た。すると、妻はいままで閉じていた眼をパッと見ひらいた。「行ってみる時刻でしょう」と妻は愁《うれ》わしげに云う。その日、津軽先生から話があるというので、外来患者控室の前で逢うことになっていた。
 彼は廊下の椅子に腰を下ろして待った。約束の時刻は来ていたが先生の姿は見えなかった。すぐ目の前を、医者や看護婦や医学生たちが、いく人もいく人も通りすぎて行った。やがて廊下はひっそりとして、冷え冷えして来た。めっきり暗くなった廊下で彼はいつまでも待った。よくない予感がしきりにしていたが、そうして待たされているうちに、もう彼は何も考えようとはしなかった。ただ、この世の一切から見離されて、極地のはてに、置きざりにされたような、暗い、冷たい、突き刺すような感覚があった。
「遅くなりました」ふと目の前に津軽先生の姿が現れた。
「召集がかかりましたので」先生は笑いながら穏やかな顔つきであった。急に彼は眼の前が真暗になり、置きざりにされている感覚がまたパッと大きく口を開いた。誰か女のつれが向うの廊下からちらとこちらを覗《のぞ》いたようであった。
「インシュリンのことでしたね、あの薬はあなたの方では手に這入《はい》りませんか」
「まるで、あてがないのです」
 彼は歪《ゆが》んだ声で悲しそうに応《こた》えた。その大きな病院でも今は容易にそれが得られなかったが、その注射薬がなければ、妻の病は到底助からないのであった。
「そうですか、それでは僕が出て行ったあとも、引きつづいて、ここへ取寄せるように手筈《てはず》しておきましょう」
 そういって先生はもう立去りそうな気配であった。彼はとり縋って、何かもっと訊《たず》ねたいことや、訴えたいものを感じながらも、押黙っていた。
「それでは失礼
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