にグラスの目盛を測っている津軽先生は、時々ペンを執って、何か紙片に書込んでいる。それは毎日、同じ時刻に同じ姿勢で確実に続けられて行く。と、ある日、どうしたことかグラスの尿はすべて青空に蒸発し、先生の眼前には露に揺らぐコスモスの花ばかりがある。先生はうれしげに笑う。妻はすっかり恢復《かいふく》しているのだった。
「わかったの、わかったのよ」
妻は彼が部屋に這入って行くと、待兼ねていたように口をきった。
「もうこれからは、独《ひと》りで病気の加減を知ることが出来そうよ、どうすればいいかわかって」そう云って妻は大きな眼をみはった。
「尿を舐《な》めてみたの、すると、とてもあまかった。糖がすっかり出てしまうのね」
妻はさびしげに笑った。だが、笑う妻の顔には悲痛がピンと漲《みなぎ》っていた。この病院でも医者はつぎつぎに召集されていたし、津軽先生もいつまでも妻をみてくれるとは請合えなかった。三カ月の予定で糖尿の療法を身につけるため入院した妻は、毎日三度の試験食を丹念に手帳に書きとめているのだった。
ある午後、彼の眼の前には、透きとおった、美しい、少し冷やかな空気が真二つにはり裂け、その底にずしんと坐っている妻の顔があった。
「この頃は、毎朝、お祈りをしているの、もう祈るよりほかないでしょう、つまらないこと考えないで一生懸命お祈りするの」
そう云って妻はいまもベッドの上に坐り直り、祈るような必死の顔つきであった。すると、白い壁や天井がかすかに眩暈《げんうん》を放ちだす、あの熱っぽいものが、彼のうちにも疼《うず》きだした。彼はそっと椅子を立上って窓の外に出る扉を押した。そのベランダへ出ると、明るい※[#「左部はさんずい、中部は景、右部は頁」、第3水準1−87−32、30−7]気《こうき》がじかに押しよせて来るようだった。すぐ近くに見おろせる精神科の棟《むね》や、石炭貯蔵所から、裏門の垣《かき》をへだてて、その向うは広漠《こうばく》とした田野であった。人家や径《みち》が色づいた野づらを匐《は》っていたが、遮《さえぎ》るもののない空は大きな弧を描いて目の前に垂《た》れさがっていた。
…………………………
「こんどおいでのとき聖書を持って来て下さい」
妻はうち砕かれた花のような笑《え》みを浮べていた。……家へ戻ってから、ふと古びた小型のバイブルをとり出してみて、彼はハッと
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