動いていた。よじくれた榎《えのき》と叢《くさむら》のはてに、浅い海が白く光っていた。そうした眺めは、彼にとってはもう久しく見馴《みな》れている風景ではあったが、なぜか近頃、はっきりと輪郭をもって、小さな絵のように彼の眼の前にとまった。その絵を妻に頒ち与えたいような気持で、病院の方へ足を運んでいることがあった。
胸の奥に軽く生暖かい疼きを感じながら、彼は繊細なものの翳《かげ》や、甘美な聯想《れんそう》にとり縋《すが》るように、歩き廻っていた。家と病院と学校と、その三つの間を往《い》ったり来たりする靴が、溝《みぞ》に添う曲り角を歩いていた。そこから坂道を登って行けば病院だったが、その辺を歩いている時、ふと彼の時間は冷やかな秋の光で結晶し、永遠によって貫かれているような気がした。それから、病院の長い長い廊下や、(それは夢のなかの廊下ではなかったが)大概、彼が行くときか帰りかにきっと出逢《であ》う中風患者の姿、(冷たい雨の日も浴衣《ゆかた》がけで何やら大袈裟《おおげさ》な身振りで、可憐《かれん》に片手を震わせていた)合同病室の扉の方から喰《は》み出している痩せた女の黄色い顔、一つの角を曲ると忽ち轟然《ごうぜん》とひびいて来る庖厨部《ほうちゅうぶ》の皿の音、――そうした病院の風景を家に帰って振返ってみると、彼には半分夢のなかの印象か、ひそかに愛読している書物のなかにある情景のようにおもえた。
だが、彼の妻が白い寝巻の上にパッと派手な羽織をひっかけ、「その辺まで見送ってあげましょう」と、外の廊下の曲り角まで一緒について来て、「ここでおわかれ」と云った時、彼はかすかに後髪を牽《ひ》かれるようなおもいがした。そこには、妻の振舞のあざやかさがひとり取残されていた。
ひとりで、附添も置かず、その部屋で暮している妻は、彼が訪れて行くたびに、何かパッと新鮮な閃《ひらめ》きをつたえた。
「熱はもうすっかり退《さ》がりました。津軽先生が、この薬とてもよく効《き》くとおっしゃるの」そう云って黒い小粒の薬を彼に見せながら、「そのうち気胸《ききょう》もしてみようかとおっしゃるの、でも、糖尿の方があるので……」と、妻は仔細《しさい》そうな顔をする。「先生も尿の検査にはなかなか骨が折れるとおっしゃるの」
彼は妻の口振りから津軽先生の動作まで目に浮ぶようであった。……明るい窓辺《まどべ》で、静か
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