と笑ひだした。
「どうしたのだ、黙つてつつ立つてゐたのでは分らないよ」
さきほどから、そこの窓口に紙片を差出して転入のことを依頼してゐる私は、ちよつと度胆を抜かれた。
「これお願ひしたいのですが、さうお願ひしてゐるのですが」
しばらくすると、その男は黙つて、その紙片を机上に展げた。それから、帳面に何か記入したり、判を押したりしだした。反古のやうな紙に禿びたペンで奇妙な文字を記入し、太い指さきで算盤を弾いては乱暴な数字を書込んでゐる。じつと窓口でそれを視入つてゐる私は、何だかあれで大丈夫なのかしらと、ひどく不安になるのであつた。だが、とにかく、かうして転入の手続は済んだ。受取つた米殻通帳その他は、その日から村で通用するやうになつた。
私をおどろかしたその老人は、村の入口の小川の曲り角とか、畑道で、ひよつくり出逢ふことがあつた。いつも鍬を肩にしてぶらぶらと歩いてゐる容子は――畑に釣をしに行くやうな風格があつた。
その後、この村から私が転出する際も、私はまたその老人の手を煩はした。老人は滅多に役場に姿を現さず主に畑を耕してゐるのだつたが、その日、村道の中ほどを悠然と歩いてゐる老人の
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