昇るし、夕方は夕方で、まるい月がやはりあそこから現れて来る。雲や星も、あの美食家の巨人の口に捧げられる。……だが、さうおもつても、やはり巨人の口も、何となく饑じさうだつた。

  朽木橋

 小春日の静かな流れには、水車も廻つてゐた。この辺まで来るのは、今日がはじめてであつたが、嫂は私より先にとつとと歩いた。薪を頒けてくれるといふ家は、まだ、もつとさきの方らしかつた。先日、雨のなかの畑路で、嫂が木片を拾ひ歩いてゐると、通りがかりの男が、薪なら少し位わけてやるよ、と言葉をかけてくれたのである。で、嫂は私を連れて、その家に薪を貰ひに行くのであつた。
 崖の下に水が流れてゐて、一本の朽木が懸つてゐる、その向に農家があつた。嫂はその橋を渡つて、農家の庭さきに廻り声をかけた。色の黒い男が早速、薪を四五把とり出してくれた。
「背負つて行くといい。負ひこを貸してやらうか」と、負ひこを納屋から持つて来てくれる。さういふものを担ふのは私は今日がはじめてであつた。
「三把負へるのだが、あんたには無理かな」
「ええ、それに、あの橋のところが、どうも馴れないので、……あそこの橋のところだけ、一つ負つて行つてもらへませんか」
 さきほどから、私はそれがひどく心配でならなかつたのだが、その男はこくりと頷き、二把の薪を背負ふと、とつとと朽木橋を渡つて行つた。

  路

 私はあの一里半の路を罹災以来、何度ゆききしたことだらう。あの路の景色は、いまもまざまざと眼の前に浮かび、あそこを歩いた時のひだるい気持も、まだ消え失せてはゐない。忍耐といふものがあるとすれば、それが強ひられるものでなく、自然に形づくられるものであるとすれば、ああした経験はたしかに役立つだらう。村から一里半ばかり小川に添つて行くと、海岸に出たところにH町がある。そこには、長兄の仮寓があつた。その家に行けば、ともかく何か喰べさせてもらへるのであつた。
 内臓が互に噛みあふぐらゐ飢ゑてゐた私は、ひよろひよろの足どりで村の端まで出て来る。すると、路は三つに岐れ、すぐ向に橋が見える。この辺まで来ると、私の足も漸く馴れ、視野も展がつて来るのだが、そこから川に添つて海の方まで出てゆく路が、実はほんとうに長かつた。
 恥かしいことながら、空腹のあまり私はとかく長兄の許へよく出掛けて行くのであつた。だが、そこで腹を拵へたとしても、帰りにはまた一里半の路が控へてゐた。ことに夜など、川に沿つて戻る路が、――それは人生のやうに佗しかつた。橋のところに見える灯を目あてに、いくら歩いて行つても、行つても、灯は彼方に遠ざかつてゆくやうにおもへることがあつた。その橋のところまで辿りつくと、とにかく半分戻つたといふ気持がする。私はH町まで行つて戻るたびに、膝の関節が棒のやうになり、まともに坐ることが出来ないのであつた。

  雲

 刈入れの済んだ後の田は黒々と横はつてゐたが、夜など遅くまで、その一角で火が燃やされてゐることもあつたし、そこでは、絶えず忙しげに働いてゐる人の姿を見かけるのであつた。
 私は二階の縁側に出て、レンズをたよりに太陽の光線で刻みタバコに火を点けようとしてゐた。雲の移動が頻りで、太陽は滅多に顔をあらはさない。いま、濃い雲の底から、太陽の輪郭が見えだしたかとおもふと、向の山の中腹に金色の日向がぽつと浮上つてくるのだが、こちらの縁さきの方はまだぼんやりと曇つてゐる。やがて雲に洗はれた太陽が、くつきりとこちらに光を放ちだしたと思ふのも束の間で、すぐに後からひろがつて来る雲で覆はれてしまふ。私は茫然として、レンズを持てあますのであつた。が、さうした折、よく、ひよつくりと、H町の長兄はここへ姿を現すのであつた。彼は縁側に私と並んで腰を下ろすと、
「一体、どうするつもりなのか」と切りだす。
 罹災以来、私と一緒に次兄の許で厄介になつてゐた妹は、既にその頃、他所へ立退いてしまつたが、それと入れ替つて、次兄の息子たちが、学童疎開から戻つて来た。いつまでも私が、ここでぶらぶらしてゐることは、もう許されないのであつた。だが、一たいどうしたらいいのか、私にはまるで雲を掴むやうな気持であつた。

  路

 降りしきる雪が、山のかなたの空を黒く鎖ざしてゐたが、海の方の空はほの明るかつた。私はその雪に誘はれてか、その雪に追ひまくられてか、とにかく、またいつもの路まで来てゐた。
 年が明けても、飢ゑと寒さに変りはなく、たまたま読んだアンデルセンの童話も、凍死しかかる昆虫の話であつた。どこかへ、私も脱出しなければ、もう死の足音が近づいて来るやうな気がした。広島の廃墟をうろつく餓死直前の乞食も眼に泌みついてゐたが、先日この村をとぼとぼと夏シヤツのまま歩いてゐた若い男の姿――その汚れた襯衣や黝ずんだ皮膚は、まだ原子爆弾直後の異臭が
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