々をそれとなく観察し、できるだけ理解しようとはした。だが、私がその村に居たのは半歳あまりだつたし、農民との接触も殆どなかつたので、街で育つた私には、何一つ掴むところがなかつた。もともと、この村は、海岸の町へ出るに一里半、広島から隔たること五里あまり、言語も、習慣も、私たちとさう懸隔れてゐる訳ではなかつたが、それでゐてこの村の魂を読みとることは、トルストイの描いた農民を理解することよりも困難ではないかと思はれた。
厠の窓から覗くと、鶏小屋の脇の壁のところに陣どつて、せつせと藁をしごいてゐる男がゐた。雨の日でも同じ場所で同じ手仕事をつづけてゐたが、その俯き加減の面長な顔には、黒い立派な口鬚もあり、ちよつと、トーマスマンに似てゐた。概して、この村の男たちの顔は悧巧さうであつた。それは労働によつて引緊まり、己れの狭い領域を護りとほしてゆく顔だつた。若い女たちのなかには、ちよつと、人を恍惚とさすやうな顔があつた。その澄んだ瞳やふつくらした頬ぺたは、殆どこの世の汚れを知らぬもののやうにおもはれた。よく発育した腕で、彼女たちはらくらくと猫車を押して行くのであつた。だが、年寄つた女は、唇が出張つて、ズキズキした顔が多かつた。
ある日、役場の空地で、油の配給が行はれてゐた。どこに埋めてあつたのか、軍のドラム罐が今いくつもここに姿を現してゐたが、役場の若い男が二人、せつせと秤で測つては壜に注いだ。各班から壜を持つて集つて来る女たちは、つぎつぎに入替つたが、私のところの班だけは組長の手違ひのため一番最後まで残された。
その秤で測つては壜に注ぐ単調な動作をぼんやり眺めてゐると、私はいい加減疲れてしまつた。だが、女たちはよほど嬉しいのだらう、「肩が凝るでせうね、揉んであげよう」と、おかみさんは油を注いでくれる青年の肩に手をかけたりした。
ふと、役場の窓のところに、村長の顔が現れた。すると、みんなは一寸お辞儀するのであつたが、その温厚さうな、開襟シヤツの村長は、煙草を燻らしながら、悠然と一同を瞰下ろしてゐた。
「油をあげるのだから、この次には働いてもらはねばいかんよ。もらふものの時だけ元気よく出て来て、働くときには知らん顔では困るからね」と、ねつとりした、しかし、軽い口調で話しかけるのであつた。
舌切雀
ある朝、私は二階の障子を繕つてゐた。ひつそりと雨が降りつづいて、山の上の空は真白だつたが、稲の穂はふさふさと揺れてゐた。たつた四五枚の障子を修繕しただけで、私はもう精魂尽きるほど、ぐつたりした。朝たべた二杯の淡いお粥は、既に胃の腑になかつたし、餉までにはまだ二三時間あつた。ふと、私の眼は、鍋に残つてゐる糊に注がれてゐた。(これはメリケン粉だな。それなら食べられる)はじめ指先で少し摘んで試みると、次にはもう瞬くうちにそれを平らげてゐるのだつた。(舌切雀、舌切雀)と私は口の糊を拭ひながら、ひとり苦笑した。
秋雨があがると暑い日がもり返して来た。村では、道路を修繕するため、戸毎に勤労奉仕が課せられた。私がふらふらの足どりで、国民学校の校庭に出掛けて行くと、帳面を手にした男がすぐ名前をそれに控へ、「あんたは車の方をやつてくれ」と云ふ。「病気あがりなのですから、なるべく楽な方へ廻して下さい」と私は嘆願した。漸く土砂掘りの方へ私は廻された。校庭の後に屹立してゐる崖を、シヤベルで切り崩して行くのであつたが、飢ゑてゐる私には、嚇と明るい陽光だけでも滅入るおもひだつた。土砂はいくらでも出て来るし、村人は根気よく働いた。その土砂を車に積んで外へ運んで行く連中も、みんな、いきいきしてゐたし、涼しさうな眼なざしをした頬かむりの女もゐた。
「お粥腹では力が出んなあ」
いつの間にか私の側には、大阪の罹災親爺が立つてゐるのだつた。
巨人
台風が去つた朝は、稲の穂が風の去つた方角に頭を傾むけ、向の低い山の空には、青い重さうな雲がたたずんでゐた。
二階からほぼ眼の位置と同じところに眺められる、その山は、時によつていろんな表情を湛へた。その山の麓から展がる稲田と、すぐ手まへに見える村社と、稲田の左側を区切つてゐる堤と、私の眼にうつる景色は凡そ限られてゐた。堤の向は川でその辺まで行くと、この渓流のながめは、ちよつと山の温泉へでも行つたやうな気持をいだかせるのだつたが、ひだるい私は滅多に出歩かなかつた。
ぼんやりと私はその低い山を眺めてゐた。真中が少し窪んでゐるところから覗いてゐる空は、それが、真青な時でも、白く曇つてゐる時でも、何か巨人の口に似てゐるやうにおもへだした。その巨きな口も、飢ゑてゐるのだらうか。いつのまにか、飢ゑてゐる私は、その山の上の口について、愚かな童話を描いてゐた。……あの巨人の口はなかなか御馳走をたべるのだ。朝は大きな太陽があそこから
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