気を奪はれた。
 日が暮れて、私は二階に昇つて行つた。すると、田の方で笛の音がするのだ。それも、一つばかりではない。短かい、単調な、笛の音は、あつちの家からも、こちらの小屋からも、今しきりにもの珍しげに鳴りひびくのであつた。さういへば、堤の方にも、山の麓にも、灯がキラキラと懐しげに瞬いてゐる。私の心も少し潤ふやうであつた。罹災以来ひどく兇暴な眼ざしになつてゐた、小さな姪の眼の色が、漸くやはらぎを帯びて来たのは、それから二三日後のことである。

  罹災者

 軍から引渡された品が隣組長の処で配給されることになつた。受取りに行つた私は、そこの閾で、二三時間待たされた。蚊取線香、靴篦、歯ブラシ、征露丸、梅肉エキス、蚤とり粉、毛筆、紙挟み、殆ど使用に堪へさうもない安全剃刀、パイプなど畳一杯に展げられてゐたが、ゲートル、帽子、雑嚢などになると、一層奇妙なものが多かつた。
 その、腹巻とも、鉢巻ともつかぬ、紐の附いた白い布をとりあげて、「これは、犢鼻褌にしたらいいわな」と側にゐる親爺が私に話しかけた。私が曖昧に頷くと、それからは相手は得意になつて、頻りに愚にもつかぬことを喋りだすのであつた。が、どうも、その弛んだ貌つきと捨鉢な口調とは不可解なものを含んでゐた。
 その後、私はその親爺とは時折路上で出喰はすやうになつた。いつも狎れ狎れしく話しかけるし、ひどく出鱈目な身なりや、阿房めいた調子は――こちらまで魯鈍の伴侶にされさうであつた。「芋を供出せえといふお触れが出たが、わしんところには畑はない。それだから他所で買ふて芋をおかみへ供出せねやならんことになるわい」さういつて、ハハと力なく笑ふのであつた。私は彼が罹災者で、大阪から流れ込んで来たことをもう知つてゐた。
 隣の家で誰か祈祷師がやつて来て、頻りに怕いやうな声をあげてゐた。その家の娘を揉み療法で祈り治すらしいのだが、ふと、その文句に耳を傾けてみると、ギヤテイ ギヤテイ ハラギヤテイとか、テウネンクワンゼオン、ボネンクワンゼオンとか、いろんな文句が綴り合はされてゐるのであつた。しかし、文句より声の方が凄さまじかつた。――ところが、その祈祷師が、あの大阪の罹災親爺だとは、私は久しく気づかなかつた。
 祈祷師、田口の親爺さんは、縁側に腰を下ろして、私の次兄に話しかけてゐた。「箪笥を売らうといふ人があるんだが、あんた買ふ気はないかね。何でも買ふなら今のうちだよ。黒柿の素敵な箪笥ぢや。うんにや、楓の木ぢやつたかな」と、彼は相変らず阿房めいた調子を混じへながら、巧みに話をもちかけてゆくのであつた。

  脅迫

 私はひどい下痢に悩まされながら、二階でひとり寝転んでゐた。すると、階下の縁側のところに誰だか近寄つて来る足音がした。
「今晩は、今晩は、森さんはここですかいの」その声ははじめから何か怨みを含んでゐるらしい調子であつたが、どうしたわけか、嫂が返事をするのが、少し暇どつてゐた。「森さん、森さん」と、相手の声はもう棘々してゐたが、やがて嫂が応対に出たらしい気配がすると、
「なして、あんたのところは当番に出なかつたのですか」と、いきなり嚇と浴せかけるのであつた。
 国民学校の校舎が重傷者の収容所に充てられ、部落から毎日二名宛看護に出ることになつてゐた。が、嫂はいま、死にさうになつてゐる息子の看病に附ききりだつたし、次兄も火傷でまだ動けない躰だし、妹はその頃、広島へ行つてゐた。……何か弁解してゐる嫂の声はききとれなかつたが、激昂してゐる相手の声は、あたり一杯に響き亘つた。
「ええツ! 義務をはたさない家には配給ものもあげやせんからの」
 と、とうとう今はそんなことまで呶鳴り散らしてゐる。その声から想像するに、相手はかなりの年配の男らしかつたが、おのれの声に逆上しながら、ものに脅えてゐるやうな、パセチツクなところもあつた。それは、抑制を失つた子供の調子であつた。やがて、その声もだんだん低くなり、まだ何か呟いてゐるらしかつたが、それもぴつたり歇んでしまつた。遠ざかつてゆく足音をききながら、私はその人柄を頭に描き、何となくをかしかつた。
 だが、この事件は、決して笑ひごとではすまなかつた。それでなくても、罹災者の弱味をもつ私たちは、その後は戦々兢々として、村人の顔色を窺はねばならなかつた。
 嫂は路傍で、村人の会話の断片を洩れ聴きして戻つて来た。
「さうすると、広島の奴等はやがてみんな飢ゑ死にか」
「飢ゑ死にするだらうてえ」
 その調子は、街の人間どもが、更に悲惨な目に陥ることを密かに願つてゐるやうだつた、と嫂は脅えるのであつた。
「上着のお礼に芋をやると約束しておきながら、とるものばかりさきにとつておいて、くれた品はたつたこれだけ」と、妹もこの辺の百姓のやりかたに驚くのであつた。

 私も、その村の人
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