泌み着いてゐるかのやうにおもへた。――も忘れられなかつた。新聞に載つた大臣の談話によると、この冬は一千万人の人間が餓死するといふではないか。その一千万人のなかには、私もたしか這入つてゐるに違ひない。
 私は降りしきる雪のなかを何か叫びながら歩いてゆくやうな気持だつた。早くこの村を脱出しなければ……。だが、汽車はまだ制限されてゐるし、東京都への転入は既に禁止となつた。それに、この附近の駅では、夜毎、集団強盗が現れて貨物を攫つて行くといふ、――いづこを向いても路は暗くとざされてゐるのであつた。

  深井氏

 深井氏はよく私に再婚をすすめてゐたが、いよいよ私が村を立去ることに決まると、「切角いい心あたりがあつたのに」と残念がつた。村を出発する日、私は深井氏のところで御馳走になつた。
「去年の二月でしたかしら」
「一月です。ここへ移つて来たのが三月で、恰度もう一年になります」
 深井氏はゆつくりと盃をおいた。去年の一月、彼は京城の店を畳んで、広島へ引上げたのだつた。だが広島へ移つてみても、形勢あやふしと観てとつた彼は、更にこの村へ引越したのである。これだけでも、千里眼のやうな的中率であつたが、その上、ここで選んだ家業が製粉業であつた。
「何といつても人の咽喉首を締めつけていらつしやるのですから……」(厭な言葉だが)と、人はよく深井氏のことを評した。
「ええ、暢気な商売でしてね、機械の調子さへ聴いてをれば、後は機械がやつてくれます。それに村のおかみさん連中が、内証で持つて来る小麦がありますし」と、深井氏はたのしさうに笑ふのだつた。だが、深井氏は決してのらくらしてゐるのではなく、裏の畑をせつせと耕してゐる姿がよく見受けられた。係累の多い彼は、いつもそのために奮闘してゐるらしかつた。
 私もこの村では深井氏を唯一のたよりとし、何彼と御世話にばかりなつてゐた。どうやらかうやら命が繋げてゆけたのも、一つには深井氏のおかげであつた。

  路

 うららかな陽光が一杯ふり灑いでゐた。私はその村はづれまで来ると、これでいよいよ、お別れだとおもひながらも、後を振返つては見なかつた。向には橋が見え、H町へ出る小川がつづいてゐる。私はその路を、その時とつとと歩いて行つたのだつた。

 東京へ移つて来た私は、その後、たちまち多くの幻滅を味つた。上京さへすれば、と一図に思ひ込んでゐたわけでもないが、私を待伏せてゐた都会は、やはり、飢ゑと業苦の修羅でしかなかつた。
 どうかすると、私は、まだあの路を歩いてゐる時の気持が甦つてくる。春さきの峰にほんのりと雲がうつろひ、若草の萌えてゐる丘や畑や清流は、田園交響楽の序章を連想さすのだつた。ここでゆつくり腰を下ろし、こまかに眼を停めて景色を眺めることができたらどんなにいいだらう。だが、私の眼は飢ゑによつて荒んでゐたし、心は脱出のことにのみ奪はれてゐた。それに、あの惨劇の灼きつく想ひが、すぐに風物のなかにも混つて来る。
 それから、あの川口へ近づくあたり、松が黒々と茂つてゐて、鉄道の踏切がある。そこへ来かかると、よく列車がやつて来るのに出遭ふ。それは映画のなかに出て来る列車のやうにダイナミツクに感じられることがあつた。いつの日にか、あの汽車に乗つて、ここを立去ることができるのだらう――私は少年のやうにわくわくしたものだ。
 広島ゆきの電車は、その汽車の踏切から少し離れたR駅に停る。その駅では、切符切のにやけ男が、いつも「君の気持はよくわかる」と歌つてゐた。それが、私にはやりきれない気持を伝へた。足首のところを絞るやうになつてゐる軍のズボンを穿いてゐる男たちの恰好も、無性に厭だつたが、急に濃厚な化粧をして無知の衣裳をひけらかしてゐる女も私をぞつとさすのだつた。
 見捨ててしまへ! こんな郷土は……
 私はいつも私に叫んでゐたものだ。

 日々の糧に脅かされながら、今も私はほとほとあの田舎の路を憶ひ出すのだ。ひだるい足どりで歩いて歩いて行つた路は、まだはるか私の行手にある。



底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
   1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行
初出:「文壇」
   1947(昭和22)年8月号
※連作「原爆以後」の1作目。
入力:ジェラスガイ
校正:門田裕志
2002年7月20日作成 
青空文庫作成ファイル:
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