「ああこんな暮しはもう早く打切りましょう。私は郷里へ帰りたくなった」と切実な声で呟いた。すると彼にはすべてがすぐに了解できるようだった。一つの時期が来たのだった。病妻の看護のために彼の家に来ていてくれた義母は、今はもう娘のためにするだけのことは為《な》し了《お》えていたのだ。年老いた義母には郷里に身を落着ける家があるのだ。急に彼もこの家を畳んで、広島の兄のところへ寄寓《きぐう》することを思いついた。すると彼には空白のなかに残されている枯木の姿が眼に甦《よみがえ》って来た。それは先日、野菜買出しのため大学病院の裏側の路を歩いていた時のことだった。去年彼の妻がその病院に入院していたこともあり、感慨の多い路だった。薄曇りの空には微熱にうるむ瞳《ひとみ》がぼんやりと感じられた。と、コンクリートの塀《へい》に添う並木の姿が彼の眼にカチリと触れた。同じ位の丈《たけ》の並木はことごとく枯枝を空白に差し伸べ冷え冷えと続いているのだ。それを視《み》ているとたちまち悲しみが彼の顔を撫《な》でまくるような気持がした。が、もっと深い胸の奥の方では静かに温かいものがまだ彼を支《ささ》えているようにおもえた。
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