しみと憐憫《れんびん》が湧《わ》いてくるようなのだった。道路の方では半鐘が鳴り「待避」と叫んでいる声がした。線路の方には朧《おぼろ》な闇のなかを赤いシグナルをつけた電車がのろのろと動いていた。
そうした哀しい風景は、過ぎ去れば、忽ち小さな点のようになって彼の内部から遠ざかって行った。彼はひっそりとした家のうちに坐って、ひっそりとした時間と向きあっていた。どうかすると、彼はまだここでは何ものも喪失していないのではないかと思われた。追憶というよりも、もっと、まざまざとしたものがその部屋には満ちていた。それから、もっと遠いところから、風のようなもののそよぎを感じた。そこには追憶が少しずつ揺れているようだった。世界は研《と》ぎ澄まされて、甘美に揺れ動くのだろうか。静かな慰藉《いしゃ》に似たものがかすかに訪れて来たようだった。……だが、そうした時間もたちまちサイレンの音で截《た》ち切られていた。庭の防空壕の中に蹲っていると、夜の闇は冷え冷えと独《ひと》り悶《もだ》えているようだった。太古の闇のなかで脅える原始人の感覚が彼には分るような気がした。
だが、ある夜、壕を出て部屋に戻って来た義母は、
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