に彼は妻の位牌《いはい》を持って、千葉の家に戻って来た。つくづくと戻って来たという感じがした。家に妻のいないことは分っていても、彼にはやはり住み馴れた場所だった。彼は書斎に坐ると、今度の旅のことをこまごまと亡妻に話しかけるような気分に浸れるのだった。だが、ある日、映画会社の帰りを友人と一緒に銀座に出て、そこで夕食をとったとき、彼にはあの魔ものの姿が神経の乱れのように刻々に感じられた。窓ガラスの外側にも、ざわざわするテーブルのまわりにも、陰惨なものの影が犇《ひし》めきあっているようなのだ。
「いつか自分たちで、自分たちの好きな映画が作りたいな」
 彼の友人は、彼に期待を持たせるように、そう呟《つぶや》くのだった。だが、そういう明るい社会が彼の生存中にやって来るのだろうか。今、彼の眼の前には破滅にむかってずるずる進んでいる無気味な機械力の流れがあるばかりだった。
 食堂を出ると、彼はもっと夕暮の巷《ちまた》を漫歩していたくなった。外で食事をとったり、帰宅を急がなくてもいい身の上になったことが、今しきりに顧みられた。彼は友人の行く方に従《つ》いてぶらぶら歩いていた。
「橋を見せてやろうか」

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