ぼんやりと魔の影につつまれて回転していた。それは妻を喪う前から、彼の外をとりまいて続いている暗いもの悲しい、破滅の予感にちがいなかった。今も電車のなかには、どす黒い服装の人々で一杯だった。ホームの人混みのなかには、遺骨の白い包みをもった人がチラついていた。久し振りに映画会社に行くと、彼は演出課のルームの片隅にぼんやり腰を下ろした。間もなく、試写が始って、彼も人々について試写室の方へ入った。と、魔の影はフィルムのなかに溶け込んで、彼の眼の前を流れて行った。大陸の暗い炭坑のなかで犇《ひし》めいている人の顔や、熱帯の眩《まぶ》しい白い雲が、騒然と音響をともないながら挽歌《ばんか》のように流れて行った。映画会社の階段を降りて、道路の方へ出ると、一瞬、彼のまわりは、しーんと静まっていた。秋の青空が街の上につづいていた。ふと、その青空から現れて来たように、向うの鋪道《ほどう》に友人が立っていた。先日、彼の家に駈《か》けつけてくれた、その友人は、一|瞥《べつ》で彼のなかのすべてを見てとったようだった。そして、彼もその友人に見てとられている自分が、まるで精魂の尽きた影のように思えた。
「おい、なんだ、しっかりし給え」
「駄目なんだ」と彼は力なく笑った。だが、笑うと今|迄《まで》彼のなかに張りつめていたものが微《かす》かにほぐされた。だが、ほぐされたものは忽《たちま》ち彼から滑《すべ》り墜ちていた。彼はふらふらの気分で、しかしまっすぐ歩ける自分を訝《いぶか》りながら鋪道を歩いていた。友人と別れた後の鋪道にはまたぼんやりと魔の影が漾《ただよ》っていた。
週に一度の出勤なのに、東京から戻って来ると、翌日はがっかりしたように部屋に蹲っていた。妻が生きていた日まで、この家はともかく、外の魔の姿からは遮《さえぎ》られていた。妻のいなくなった今も、まだ外の世界がいきなりここへ侵入して来たのではなかった。だが、どこからか忍びよってくる魔の影は日毎《ひごと》に濃くなって行くようだった。彼は、ある画集で見た「死の勝利」という壁画の印象が忘れられなかった。オルカーニアの作と伝えられる一つの絵は、死者の群のまんなかに大きな魔ものが、どっしりと坐っていた。それからもう一つの絵は、画面のあちこちに黒い翼をした怪物が飛び廻っていた。その写真版からは、人間の頭脳を横切る魔ものの影がぞくぞくと伝わってくるようなのだった。人間の想像力で描き得る破滅の図というものは、いくぶん図案的なものかもしれない。やがて来る破滅の日の図案も、もう何処《どこ》かの空間に静かに潜められているのだろうか。
暫《しばら》く滞在していた義姉が神戸の家に帰ることになった。義姉の家には挺身隊《ていしんたい》の無理から肺を犯されて寝ている娘がいた。その姪《めい》のために彼は妻のかたみの着物を譲ることにした。箪笥《たんす》から取出した衣裳《いしょう》を義母と義姉はつぎつぎと畳の上にくりひろげて眺めた。妻はもっている着物を大切にして、ごく少ししか普段着ていなかったので、殆《ほとん》どがまだ新しかった。義母は愛着のこもった手つきで、見憶《みおぼ》えのある着物の裾をひるがえして眺めている。彼には妻の母親が悲歎《ひたん》のなかにも静かな諦感をもって、娘の死を素直に受けとめている姿が羨《うらやま》しかった。ある日こういうことになる日が訪れて来たのか、と彼は着物の賑《にぎ》やかな色彩を眺めながら、ぼんやり考えた。
広島までの切符が手に入ったので、彼は骨壺を持って郷里の兄の家に行くことにした。夕方家を出て電車に乗ると、電車はぎっしり満員だった。夜の混濁した空気のなかで、彼は風呂敷に包んだ骨壺と旅行カバンを両脇にかかえて、人の列に挾《はさ》まれていた。無事にこの骨壺を持って行けるだろうか、押しあうカーキ色の群衆のなかで彼はひどく不安だった。駅のホームに来てみると列車は満員で、座席はとれなかった。網棚《あみだな》の片隅に置いた骨壺が、絶えず彼の意識から離れなかった。荒涼とした夜汽車の旅だったが、混濁と疲労の底から、何か一すじ清冽《せいれつ》なものが働きかけてくるような気持もした。
その清冽なものは、彼がそれから二日後、骨壺を抱えて郷里の墓地の前に立ったときも、附纏《つきまと》ってくるようだった。納骨のために墓の石も取除かれたが、彼の持っている骨壺は大きすぎて、その墓の奥に納まらなかった。骨は改めて、別の小さな壺に移されることになった。改めて彼は再び妻の骨を箸《はし》で撰《え》りわけた。火葬場で見た時とちがって、今は明るい光線の下に細々とした骨が眼に泌《し》みるようだった。壺に納まった骨は静かに墓の底に据えられ、余りの骨は穴のなかにばら撒《ま》かれた。この時、彼の後に立っている僧がゆるやかな優しい声で読経をあげた。それは誰
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