かを静かにゆさぶり、慰め、あやしているような調子だった。彼は眼をあげて、高いところを見ようとした。眼の少し前には、ひょろひょろの樹木が一本、その後には寺の外にある二階建の屋根が、それらはすべてありふれた手ごたえのない眺めだった。が、陽の光ばかりは遙《はる》かに清冽なものを湛《たた》えていた。
埋葬に列《つら》なった人々は、それから兄の家に引かえして座敷に集った。「波状攻撃……」と誰かが沖繩の空襲のことを話していた。その酒席に暫く坐っているうちに、彼はふと居耐《いたたま》らなくなった。何かわからないが怒りに似たものが身に突立ってきた。彼はひとり二階に引籠《ひきこも》ってしまった。葬儀の翌日から雨が降りだした。彼は二階の雨戸を一枚あけたまま薄暗い部屋で、昼間から寝床の上でうつうつと考え耽《ふけ》った。その部屋は彼が中学生の頃の勉強部屋だったし、彼が結婚式をあげてはじめて妻を迎えたのも、その部屋だった。ほのぼのとした生の感覚や、少年の日の夢想が、まだその部屋には残っているような心地《ここち》もした。だが彼は悶絶《もんぜつ》するばかりに身を硬《こわ》ばらせて考えつづけた。彼にとって、一つの生涯は既に終ったといってよかった。妻の臨終を見た彼には自分の臨終も同時に見とどけたようなものだった。たとえこれからさき、長生したとしても、地上の時間がいくばくのことがあろう。生きて来たということは、恨にすぎなかったのか、生きて行くということも悔恨の繰返しなのだろうか。彼は妻の骨を空間に描いてみた。彼の死後の骨とても恐らくはあの骨と似かよっているだろう。そうして、あの暗がりのなかに、いずれは彼の骨も収まるにちがいない。そう思うと、微かに、やすらかな気持になれるのだった。だが、たとえ彼の骨が同じ墓地に埋められるとしても、人間の形では、もはや妻とめぐりあうことはないであろう。
三日ばかり部屋に閉籠って憂悶を凝視していると、眼は酸性の悲しみで満たされていた。雨があがると、彼は家を出て郷里の街をぶらぶら歩いてみた。足はひとりでに、墓地の方へ向った。彼は墓の前に暫く佇《たたず》んでいたが、寺を出ると、橋を渡って川添の公園の方へ向った。秋晴れの微風が彼の心を軽くするようだった。何もかも洗い清められた空気のなかに溶け込んでゆくようで天空のかなたにひらひらと舞いのぼる転身の幻を描きつづけた。
一週間目に彼は妻の位牌《いはい》を持って、千葉の家に戻って来た。つくづくと戻って来たという感じがした。家に妻のいないことは分っていても、彼にはやはり住み馴れた場所だった。彼は書斎に坐ると、今度の旅のことをこまごまと亡妻に話しかけるような気分に浸れるのだった。だが、ある日、映画会社の帰りを友人と一緒に銀座に出て、そこで夕食をとったとき、彼にはあの魔ものの姿が神経の乱れのように刻々に感じられた。窓ガラスの外側にも、ざわざわするテーブルのまわりにも、陰惨なものの影が犇《ひし》めきあっているようなのだ。
「いつか自分たちで、自分たちの好きな映画が作りたいな」
彼の友人は、彼に期待を持たせるように、そう呟《つぶや》くのだった。だが、そういう明るい社会が彼の生存中にやって来るのだろうか。今、彼の眼の前には破滅にむかってずるずる進んでいる無気味な機械力の流れがあるばかりだった。
食堂を出ると、彼はもっと夕暮の巷《ちまた》を漫歩していたくなった。外で食事をとったり、帰宅を急がなくてもいい身の上になったことが、今しきりに顧みられた。彼は友人の行く方に従《つ》いてぶらぶら歩いていた。
「橋を見せてやろうか」
友は彼を誘って勝鬨橋《かちどきばし》の方へ歩いて行った。橋まで来ると、巷の眺めは一変して、広大無辺なものを含んでいた。冷やかな水と仄暗い空があった。(やがて、このあたりも……)夕靄《ゆうもや》のなかに炎の幻が見えるようだった。それから銀座四丁目の方へ引返して行くと、魔の影は人波と夕靄のなかに揺れていた。(このひとときが破滅への進行のひとときとしても……)靄のなかに動いている人々の影は陰惨ななかにも、まだかすかに甘い憂愁がのこっているようだ。だが、彼が友人と別れて電車に乗ると、夜の空気のなかから、何かぞくぞく皮膚に迫ってくるものがあった。暗い冷たいものが身内を這《は》いまわるようで、それはすぐにも彼を押し倒そうとしていた。(何がこのように荒れ狂うのだろうか)今迄に感じたことのない不思議な新鮮な疲れだ。家にたどりつくと、彼は夜具を敷いて寝込んでしまった。何かが彼のなかに流れ込んでくる、それは死の入口の暗い風のような心地がした。彼はそのまま眼をとじて闇に吸い込まれて行ってもいいと思った。しかし、二三日たつと彼の変調は癒《い》えていた。
ある午後、彼は、演出課のルームでぼんやり腰を下ろして
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