たアルコールを脱脂綿に浸して、彼は妻の体を拭《ふ》いて行った。義母はまだ看護のつづきのように、しみじみと死体に指を触れていた。それは彼にとって知りすぎている体だった。だが硬直した皮膚や筋肉に今はじめて見る陰翳《いんえい》があった。
その夜も明けて、次の朝がやって来た。棺に入れる花を買いに彼は友人と一緒に千葉の街へ出かけて行った。家を出てから、ずっと黙っていた友は、国道のアスファルトの路《みち》へ出ると、
「元気を出すんだな、挫《くじ》けてはいかんよ」
と呟いた。
「うん、しかし……」と彼は応えた。しかし、と云ったまま、それからさきは言葉にはならなかった。佗《わび》しい単調な田舎街《いなかまち》の眺《なが》めが眼の前にあった。(これからさき、これからさきは、悲しいことばかりがつづくだろう)ふと、そういう念想が眼の前を横切った。……寝棺に納められた妻の白い衣に、彼は薄荷《はっか》の液体をふりかけておいた。顔のまわりに、髪の上に、胸の上に合掌した手のまわりに、花は少しずつ置かれて行った。彼はよく死者の幻想風な作品をこれまでも書いていたのだが、だが今眼の前で行われていることは幻ではなかった。郷里から妻の兄がその日の夕刻家に到着していた。そうした眼の前の一つ一つの出来事が、いつかまた妻と話しあえそうな気が、ぼんやりと彼のなかに宿りはじめた。
霊柩車が市営火葬場の入口で停ると、彼は植込みの径《みち》を歩いて行った。花をつけた百日紅《さるすべり》やカンナの紅が、てらてらした緑のなかに燃えていた。その街に久しく住み馴《な》れていたのだが、彼はこんな場所に火葬場があるのを今日まで知らなかったのだ。妻も恐らくここは知らなかったにちがいない。柩《ひつぎ》は竈《かまど》の方へあずけられて、彼は皆と一緒に小さな控室で時間を待っていた。何気なく雑談をかわしながら待っている間、彼はあの柩の真上にあたる青空が描かれた。妻の肉体は今最後の解体を遂げているのだろう。(わたしが、さきにあの世に行ったら、あなたも救ってあげる)いつだったか、そんなことを云った彼女の顔つきが憶《おも》いだされた。それは冗談らしかったが、ひどく真顔のようでもあった。……しばらく待っているうちに火葬はすっかり終っていた。竈のところへ行ってみると焦げた木片や藁灰《わらばい》が白い骨と入混っていた。義母はしげしげとそれを眺めながら骨を撰《え》り分けた。彼もぼんやり側に屈《かが》んで拾いとっていたが、骨壺《こつつぼ》はすぐに一杯になってしまった。風呂敷に包んだ骨壺を抱えて、彼は植込の径を歩いて行った。すると遽《にわ》かに頭上の葉がざわざわ揺れて、さきほどまで静まっていた空気のなかにどす黒い翳《かげ》りが差すと、陽《ひ》の光が苛立《いらだ》って見えた。それはまた天気の崩れはじめる兆《きざし》だった。こういう気圧や陽の光はいつも病妻の感じやすい皮膚や彼の弱い神経を苦しめていたものだ。(地上には風も光ももとのまま)そう呟くと、急に地上の眺めが彼には追憶のように不思議におもえた。
持って戻った骨壺は床の間の仏壇の脇《わき》に置かれた。さきほどまで床の間にはまだ明るい光線が流れていたのだが、いつの間にかそのあたりも仄暗《ほのぐら》くなっていた。外では雨が降りしきっていた。湿気の多い、悲しげな空気は縁側から匐《は》い上って畳の上に流れた。時折、風をともなって、雨はザアッと防空壕《ぼうくうごう》の上の木の葉を揺すった。庭は真暗に濡《ぬ》れて号泣しているようなのだ。こうした時刻は、しかし彼には前にもどこかで経験したことがあるようにおもえた。郷里から次兄と嫂《あによめ》がやって来たので、狭い家のうちは人の気配で賑《にぎわ》っていた。その家の外側を雨は狂ったように降りしきっていた。
二日つづいた雨があがると、郷里の客はそれぞれ帰って行った。義姉だけはまだ逗留《とうりゅう》していたが、家のうちは急に静かになった。床の間の骨壺のまわりには菊の花がひっそりと匂《にお》っている。彼は近いうちに、あの骨壺を持って、汽車に乗り郷里の広島まで行ってくるつもりだった。が、ともかく今はしばらく心を落着けたかった。久し振りに机の前に坐って、書物をひらいてみた。茫然《ぼうぜん》とした頭に、まだ他人の書いた文章を理解する力が残っているかどうか、それを試《ため》してみるつもりだった。眼の前に展《ひろ》げているのは、アナトール・フランスの短篇集だった。読んで意味のわからない筈《はず》はなかった。だが意味は読むかたわらに消えて行って、それは心のなかに這入《はい》って来なかった。今、彼は自分の世界がおそろしく空洞《くうどう》になっているのに気づいた。
久し振りに彼は電車に乗って、東京へ出掛けて行くと、家を出た時から、彼をとりまく世界は
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