ことがらになつてしまつた。だが、生活とは多分あのやうな、ひつそりした片隅にしかないものなのだらう。
ひつそりとしたこの宿の雰囲気を絶えず掻き乱してゐるのは、僕のすぐ向ふの部屋なのだ。障子と狭い廊下で隔てられてゐるその部屋は殆ど絶え間なく僕の方へ響いてくる。障子の向ふの若い男は日に二三度は烈しい咳の発作に襲はれる。その咳だけきいてゐると、もう余り余命は長いことなささうなのだ。だが、咳が鎮まれば、すぐ興奮した声で彼は喋りつづける。その障子の向ふで細君を相手に喋つたり身動きしてゐる調子は、まるで何か危険な物質の上を爪立ちながら飛歩いてゐるやうだ。僕はその男の身うごきから、ふと向ふの部屋に無数の爆弾が飛散つてゐるやうな幻想をおぼへる。箸を持つ間も畳の上を忙しげに、あの男は逃廻つてゐるのではないか。その部屋には日に何度も相棒らしい人がやつて来るが、すると彼は相棒らしい声でひどく調子づいてゐる。忙しげに早朝から出かけるかとおもへば、一日中寝そべつて細君と喋りあつてゐることもある。それから、軍人あがりらしい間抜け声の揉み医者がやつて来ると、二人はすぐ世間話に夢中になる。終戦のどさくさに、らくらくと荒稼ぎした連中のことを彼は自分のことのやうに熱狂して話しだす。間抜け声の医者はねつとりと落着払つて「さうしたものですかなあ」と感心してゐる。そのうちに話はきつと戦争のことになる。すると彼等の間にはもう今にもすぐ世界戦争が始まりさうなことになつてゐるのだ。「さうしたものですかなあ」と揉み医者はいつまでも坐り込んでゐる。
どうしても、絶えず、あの部屋には騒擾がなくてはならないのだらう。男が留守の時は、小柄な細君がひとりで何かぶつぶつ呟いてゐる。「ああ、米が欲しい、米が。いつになつたら米の心配しないで暮せる世の中になるのやら」と嘆息のやうに喚いてゐることもある。僕はある朝その細君が男にむかつて、「それでもあなたは元気になつたわね」と囁いてゐるのを聞いて吃驚した。あの二人もこの地上から追詰められて、今、六枚の畳の上で佗しく寄り添つてゐるのだが、ほんとに寄り添つてゐるのだらうか、そのことさへ、もう気づかないし、はつきりはしてゐないに違ひない。
三度、三度の外食食堂では玉蜀黍の団子がつきものなのだが、あの日まはりの花のやうに真黄な団子は嚥下するのに困難であつても、とにかく空腹感を満たしてくれる
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