その時私は何か幸運にでもありついたように嬉しかった。それは肩からかける雑嚢なのだが、そのなかには緊急な品々が手際よく詰めてあった。その頃、私はもう逃亡の訓練には馴れていたが、こんな細心な準備ができていたのは、これは一年前に死別れた妻の細心なやり方が絶えず私に作用していたためだろう。
その雑嚢のなかに詰めておいた品物の名をここに列挙すると
繃帯、脱脂綿、メンソレータム、ヒロポン、ズルファミン剤、オートミイルの缶入、炒米、万年筆、小刀、鉛筆、手帳、夏シャツ、手拭、縫糸、針、ちり紙、煙草、マッチ、郵便貯金通帳、ハガキ、印鑑
これだけが、うまく詰めこんであった。かねて私は水の中に飛込んだりすることも計算に入れて、タバコは湿らないために味の素の小缶のなかにマッチと一緒に密閉しておいた。家の附近が燃えだしたので、私は川の方へ逃げて行った。泉邸の裏の川岸へ来てみると兄も妹も来ていた。近所の知った人の顔もかなり見かけられた。私はタバコをとりだして、前に悄然と立っている隣組長にすすめた。彼はさきほど自宅で長男の死体を見とどけて来たばかりのところだった。向岸はさかんに燃えつづけていた。私は川岸に腰を
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