たとしても致し方のないことであつた。だが、僕はあまりかうした念想に耽けりたくなかつたし、寧ろ何事もなかつた人間のやうな顔つきでゐたかつた。
 このガラス張の家は――これは十年前建てられたのだが――今はいたる処が破損しかかつてゐたので、扉の開け立てや、階段の昇り降りにも注意を要した。家の外にある井戸のポンプも調子が狂つてゐて取扱因難だつた。が、僕は最初ここへ来たとき一とほりその心得をきかされた。「もう他に注意してもらふことはなかつたと思ふが……」と、細君はちよつと満足げにあたりを見廻した。だが、まだ心得ておくべき、いろんな細かな不文律があつたのだ。「なにしろ彼女の生活様式や信条をみんなに押しつけようとするのでね」と、ある時この家の主人は僕にそつと解説してくれた。「彼女の精神形成史は非常に複雑で不幸なのさ」と、彼は自らの不幸を嘆くやうに呟くのであつた。隣組の人とは絶対に無駄口をきいてはならないこと、家の内だけでなく、その周辺数米に亘つて、さまざまの神経的な禁制が存在してゐること、そんなことの次第も僕はだんだん覚らされて行つた。
 この家の外は木立の多いアスフアルトの坂路であつて、大きな邸の
前へ 次へ
全23ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング