と、何か遙かに優しいものに誘はれて、(あ、時は流れた)といふ感嘆が湧いた。ほんとに、そこから梢を見上げてゐると、自分のゐる場所がだんだん谷底のやうにおもへる。多分いま僕はこの世の谷底にゐるに違ひなかつた。だが、いつかは、いつかは谷間を攀ぢのぼつて、さうして、もう一度、あ、時は流れたと感嘆したいものだ。とかく僕は戦災乞食の己れを見離してはゐなかつた。
 もつとも、こんなことはあつた。何かの話の中途で、この家の細君はいきなり僕に変な罵倒を投げつけた。
「へえツ、あなたはいつまで生きてゐられると思ふのです、あなたの生命なんか、あともう二三年もない癖に」
 僕はこの断定に吃驚して、僕のどこかに死神が取憑いてゐるのかと、自分の背後を振返つた。が、細君は確信に満ちたやうな、ひどく冷酷な表情だつた。……もしかすると、僕には、この肉眼に灼きつけられた、あの大災禍の絵巻が、死狂ふ裸体の群像が、まだどこかで僕に作用してゐるのではないか。それで、細君の眼には、僕が最後の審判からのがれて来た不吉な人間のやうに見えるのかもしれない。罹災以来、絶えず飢ゑと屈辱をくぐり抜けて来た、この僕に、死の臭がまつはりついてゐ
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