した瞬間のことが、まだどうしても脳裏から離れないのだ。
 壊れものの上にゐるやうに、僕はおづおづとしてゐなければならない。僕はこの家の主人と階下で顔を逢はすことがあつても、お互に罪人同志が話しあふやうな慎重さで、さりげなくお天気のことなど二こと三こととりかはす。僕にはこの家の主人が、やはりいつも壊れものの側にゐるやうに、じつと何かを抑制してゐるやうにおもへてならない。この蓬髪の大男の体全体から放射されるパセチツクな調子は、根限り忍耐を続けてゐるものの情感だ。それは僕の方に流れてくる。……だが、ここでは、少くともこの家の細君の前では、彼と話をすることも遠慮しなければならなかつたので、僕は自分の部屋にじつと引込んでゐるのだ。
 ある日、(さうだ、こんなある日もあるのだ。)……僕がその部屋――それはこの家の入口の脇にある小さな一区切だが――の扉の前を通りかかると、ふとその扉がぽつと開く。大きなノート・ブツクがぬつと差出される。
「読んでみてくれ、詩だ」彼の調子はどこかいつもとは変つてゐる。で、僕は、あ、今日はマダムが出かけてゐて留守なのだな、と気がつく。僕は二階の部屋にそのノート・ブツクを持
前へ 次へ
全23ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング