つていた。この家の主人は一月前に社用で何処か遠方へ行つてしまつた。僕はその主人が旅に出かける前、一度一緒に散歩したことがある。そのとき彼は、
「女房の奴、よほど恐つてゐる。俺ともう一ケ月も口をきかない」とぽつんと云つた。
「あ」といふやうな曖昧な頷き方を僕はした。この家にわだかまつてゐる幽暗なものに、それ以上触れるのは何だがおそろしかつたのだ。
 僕はいつもそつとしてゐるのだ。ことりといふ物音一つからでも、このガラスの家は崩壊しさうな気がする。実際ここでは薄い壁とすりガラスの窓と木造の細い窓枠のほか、この家を支へてゐる柱らしいものは無いのだ。地面と同一の高さにある階下の床は歩くたびに釘のとれた床板が跳ね返る。その、だだつ広く天井の高い一階は、壁がはりに張られたガラス全体の枠が物凄く歪んでゐるが、一階から細い階段に眼を向けて二階の方を見上げると、壁の亀裂の線に沿ふやうに二階の部屋が少しずり下つてゐる。僕のゐるあの部屋が墜落する瞬間のことが、どうしても描かれてならないのだ。それは僕があの部屋にゐるとき生じるのだらうか、それとも僕が外に出てゐる留守のときに起るのか……僕にはあの広島の家が崩壊
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