は暫くしておさまつてゐたが、いつの間にか僕は屋内の洗面所で口を漱ぐことを禁止されてゐた。僕は雨の朝の屋外の井戸の処で顔を洗ふことになつた。ところが暫くすると井戸端で顔を洗ふのも禁止されてしまつた。僕は一旦井戸で汲んだ洗面器を抱えて、今は塵捨場になつてゐる防空壕のところで顔を洗つた。……食事も既に大分前から僕のだけ分離されてゐた。いつも食事の時刻を見計つて僕が階段を降りて行くと、誰もゐない広い部屋の片隅に僕の食事がぽつんと置いてあつた。どうかすると膳の脇に、「タバコ、五円三十銭」と書いた紙片と配給ののぞみ[#「のぞみ」に傍点]が置いてあつた。
 僕はもうこの家の細君と口をきくのが怕かつた。どうしても何かを口頭で依頼しなければならぬ時、僕はまるで犯人のやうにへどもどしてゐた。細君の顔は石のやうに平静だつたが、僕のおろおろ声がその耳に入つた時、一瞬相手の顔にさつと漲る怒気はまるで鋭利な刃もののやうにおもへた。……僕は自分の部屋にゐる時でも、絶えずこの家の神経に監視されてゐた。僕はじりじりと脅やかされ絶えず悶えた。それでも僕は卑屈にはなりたくなかつた。しかし、どうしてもこれでは卑屈にしかなれない。このまま、かうした生活をつづけて行くなら僕は結局、陰惨無類の人間にされてしまひさうだ。僕はそれが腹立たしく、時に何かヒステリツクな気持に駆られさうだつた。
 どんなに僕が打ちのめされてゐるかは、外へ出てみるとよくわかつた。たまに以前の友人を訪ねて行つたりすると、罹災してゐない家では、畳があつて、何もかも落着いてゐる。それだけでも僕には慰めのやうな気がしたが、その家では食事まで出してくれる。それも、僕一人がぽつんと餌食を与へられるのではなく、みんなが僕を忌避しないで食卓を囲む。こんなことがあり得るのだらうかと、僕は何だか眼の前に霧のやうなものがふるへだすのだつた。……霧のやうなものは、あまり親しくない人を訪ねて行つても、僕のなかでふるへてゐた。さういふ人と逢ふとき、僕はひどく感情が脅え、言葉が閊へたりするのだが、相手は僕を喫茶店へ誘つて珈琲を奢つてくれたりする。僕のやうな人間でも、あたりまへに扱つてくれる人がゐるのかと思ふと、急に泣きだしたくなる。いけない、いけない、これはまるでヒステリーの劣等感だ、と僕は自分にむかつて叫ぶ。だが、飢ゑと一緒に存在する涙もろいものは、僕の顔のすぐ下に
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