あつて、どうにも出来なかつた。
 ある日も僕は昔の知人とめぐりあつて、その家で酒を御馳走になつた。はじめはやはり冷んやりと脅えがちのものが僕のなかに蟠つてゐたが、そのうちに酒の酔と旧知の情が僕をだんだんいい気持にさせた。すると、僕はお前が生きてゐた頃の昔の自分とまだちよつとも変つてゐないやうな気がした。帰つて行けば、ちやんと居心地のいい家が待つてゐてくれる、さういふ風な錯覚が僕の足どりを軽くした。だが、一歩そこの門を出ると、外は真の暗闇だつた。廃墟の死骸や狂犬やあらゆる不安と溶けあつてゐる茫々とした夜路をふらふらと僕は駅の方へ歩いて行つた。駅に来て僕は電車を三十分あまり待つた。それから乗替の駅ではもつともつと長く待たねばならなかつた。さうして夜の時刻が更けて行くのが切実な恐怖をかきたてながら、一方ではまだ昔の夢が疼くやうに僕のなかにあつた。いつもの駅で降りた時、既に人足は杜絶えてゐた。僕はその家の戸口に立つまではやはり何か満ちたりたやうな気分だつた。……灯を消したガラスの家はしーんとして深夜のなかに突立つてゐた。僕はその扉にまだ鍵が掛つてゐないのを知つて、まづ吻とした。それから内側に入つて、何気なく鍵を掛けようとした。ところが、どうしても鍵はうまく掛らなかつた。僕は扉を持上げては、鍵と鍵穴の位置を合はさうとした。すると、そのたびに扉はガタガタと音たて、鍵は反抗するのだつた。ゴトゴトといふもの音が僕を苛責と恐怖に突陥してゐた。僕はその時、奥の方の寝室でこの家の細君が何か歯ぎしりに似た呻き声を発したやうにおもふ。つづいて鈍い足音が近づき、暗闇の向から主人の声がした。
「おう、いいよ、僕が掛ける」声の調子で僕は相手が怒つてゐないのを感じた。
「あ……」と曖昧な返答を残し僕はそのまま階段を昇つて行つた。
 僕が何十回試みても出来なかつた鍵を、彼は一回で完了した。あたりは再びしーんとなつた。
 僕が自分の部屋に入り、洋服掛に服を吊るさうとする、服掛がガタンと床に落ちた。木製の服掛は薄い板敷に(それはそのまま天井板になつてゐて、その下ではこの家の細君が寝てゐるのだ)あまりにも大きな音響をたてた。たちまち僕の耳は歯ぎしりに似た神経の脅威を聞いたやうな気がする。だが、それはこの家屋の不幸な呻吟のやうにもおもへた。……それから僕は部屋の片隅に積重ねてある夜具を敷かうとした。すると、机
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