憎悪してやります」
「どんな間違を僕が犯したのですか」僕は青ざめて聞きかへした。
「今朝あなたは畑のところで何をしてゐたのです」
 漸く僕には少し意味がわかつて来た。いつだつたか、理由は分らなかつたが、あまり家のまはりを出歩いてはいけないと言ひ渡されたことが、たしかにあつたやうだ。僕は煙草のことを説明しようと思つたが、言葉にはならなかつた。
「あなたが普通の人間でないことを知つてゐる人ならかまひませんが、何も知らない人はみんな吃驚しますよ。子供があきれて、あなたを見てゐました。この近所の子供は私がたつた一言、『あれはキチガヒだ』とそそのかせば、今後あなたを見るたびに石を投げます」
「………………」
「それに、あの畑の持主は、いつでも物蔭から見張りしてゐて、少しでも怪しげな奴が立つてゐれば、いきなり鍬で撲りつけます。つまりあなたは撲り殺されたいのですか」
 僕はもう平謝りに謝るより他はなかつた。黙つたまま細君は漸く椅子を離れた。
 僕の心臓はゆさぶられ、打ちのめされてしまつた。自分の部屋に戻ると、暫くごろんと寝転んでゐたが、何かに急きたてられ、さうだ、かうしてはゐられない、と立上つた。かうしてはゐられない、……とにかく、なんとかしなければ、と僕は何か的があるやうに外出の用意をした。といつて、何処にも行く場所はなかつたし、出勤の時間はまだ早かつたが、僕はいつものやうに電車に揉みくちやにされてゐた。……僕は思考力を失つてゐた。心臓ばかりがゆさぶられ、脅え上つて一睡もしようとしない神経があつた。昼間の衝撃が緩い緩い速度で回転してゐる。と思ふと、突然、路上に放り出されて喘いでゐる自分を見出すのだ。炎天の焔の中で死狂ふ人や、放り出されてこときれてゐる死骸が……。あの死骸は僕なのか。……あの時以来、僕は死ぬるならやはり何処かの軒の下で穏かに呼吸をひきとりたいと思つてゐた。ところが、ふと気がついたのだが、僕を容れてくれる屋根は今はもう何処にもないのだ。これははじめから分つてゐたはずだつた。僕の迂闊さがいけなかつたのだ。
 悪いことに、僕はその頃から、ときどき変な咳をするやうになつてゐた。
「一度医者に診てもらつたらどうだ」この家の主人は僕を憐むやうな調子で云つてくれる。「今病気したら大変だからね、早いうちに養生した方がいい」僕はただ泣きたい気持でそれを聞いてゐた。……僕の怪しげな咳
前へ 次へ
全12ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング