今も彼の棲《す》んでいる家だったが――は海の見える茫漠《ぼうばく》とした高台の一隅にあった。彼はその家のなかで傷ついた獣のように呻吟《しんぎん》していた。狭い庭にある二本の黐《もち》の樹の燃えたつ青葉が油のような青空を支《ささ》えていて、ほど遠からぬところにある野づらや海のいきれがくらくらと彼の額に感じられた。朝の陽光がじりじりと縁側の端を照りつけているのを見ただけでも彼は堪《たま》らない気持をそそられる。すべては烈《はげ》しすぎて、すべては彼にとって強すぎたのだ。しーんとした真昼、彼は暑さに喘《あえ》ぎながら家のうちの涼しそうなところを求めていたが、風呂場の流板の上に小桶《こおけ》に水を満たすと、ものに憑《つ》かれたようにぼんやりと視入《みい》った。小さな器の水ながら、それは無限の水の姿に拡《ひろが》ってゆく。と彼の視野の底に肺を病んで死んで行った一人の友人の姿が浮ぶ。外部の圧迫に細り細りながら、やがて瀕死《ひんし》の眼に把《とら》えられたものは、このように静かな水の姿ではなかろうかと……。
 奇怪な念想は絶えず彼につきまとっていた。午睡の覚《さ》めた眼に畳の目は水底の縞《しま》のように朧気《ぼおろげ》に映る。と、黄色い水仙のようなものが、彼の眼の片隅にある。それは黄色いワン・ピースを着た妻であったが、恐水病患者の熱っぽい眼に映る幻のようでもあった。今にも息が杜絶《とだ》えそうな観念がぎりぎりと眼さきに詰寄せる。だが、妻はいつも彼の乱れがちの神経を穏かに揺り鎮《しず》め、内攻する心理を解きほぐそうとした。どうかすると妻の眼のなかには彼の神経の火がそのまま宿っているように想えることもある。彼は不思議そうにその眸に視入った。と忽ち、もっと無心なものが、もっと豊かなものが妻の眸のなかに笑いながら溢《あふ》れていた。無心なものは彼を誘って、もっと無邪気に生活の歓《よろこ》びに浸らせようとするのだった。彼等が移って来たその土地は茫漠とした泥海と田野につつまれていて、何の拠《よ》りどころも感じられなかったし、一歩でも閾《しきい》の外に出ることは妙に気おくれが伴なうのだったが、それでも陽が沈んで国道が薄鼠色に変ってゆく頃、彼は妻と一緒によく外に出た。平屋建の黝《くろず》んだ家屋が広いアスファルトの両側につづいて、海岸から街の方へ通じる国道は古い絵はがきの景色か何かのようにおもえ
前へ 次へ
全10ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング