まま》、ぼんやりと向側の軒の方の空を眺《なが》めていた。それは衰えてゆく外の光線に、あたかも彼女自身の体温器をあてがっているような、祈りに似たものがある。ほんの些細《ささい》な刺戟《しげき》も彼女の容態に響くのだが、そうしていま彼女のいる地上はあまりにも無惨に罅割《ひびわ》れているのだったが、それらを凝《じっ》と耐え忍んでゆくことが彼女の日課であった。
「外へ椅子を持出して休むといいよ」
彼は窓から声をかけてみた。だが、妻は彼の云う意味が判《わか》らないらしく、何とも応《こた》えなかった。その窓際《まどぎわ》を離れると、板壁に立掛けてあるデッキ・チェアーを地面に組み立てて、その上に彼は背を横《よこた》えた。そこからもさきほどの、あの梢の光線は眺められた。首筋にあたるチェアーの感触は固かったが、彼はまるで一日の静かな療養をはたした病人のように、深々と身を埋めていた。
それに横わると、殆《ほとん》どすべての抵抗がとれて、肉体の疵《きず》も魂の疼《うずき》も自《おのずか》ら少しずつ医《いや》されてゆく椅子――そのような椅子を彼は夢想するのだった。その純白なサナトリウムは※[#「さんずい+景+頁」、第3水準1−87−32]気《こうき》に満ちた山の中腹に建っていて、空気は肺に泌《し》み入るように冷たいが、陽の光は柔かな愛撫《あいぶ》を投げかけてくれる。そこでは、すべての物の象ががっちりとして懐《なつか》しく人間の眼に映ってくる。どんな微細な症状もここでは隈《くま》なく照らし出されるのだが、そのかわり細胞の隅々《すみずみ》まで完膚なきまで治療されてゆく。厳格な規律と、行きとどいた設備、それから何よりも優しい心づかい、……そうしたものに取囲まれて、静かな月日が流れてゆく。人は恢復期《かいふくき》の悦《よろこ》びに和らぐ眸《ひとみ》をどうしても向うに見える樹木の残映にふりむけたくなるのだ……。
今、あたりは奇妙に物静かだった。いつも近所合壁の寄合う場所になっている表の方の露次もひっそりとして人気《ひとけ》がなかった。それだけでも妻はたしかに一ときの安堵に恵まれているようだった。そして、彼もまたあの恢復期の人のように幻の椅子に凭《よ》りかかっていた。
彼|等《ら》二人がはじめてその土地に居着いた年の夏……。その年の夏は狂気の追憶のように彼に刻まれている。居着いた借家――それは
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