た。
(流竄《りゅうざん》。そういう言葉が彼にはすぐ浮ぶのだ。だが、彼は身と自らを人生から流謫《るたく》させたのではなかったか)
鍛冶屋《かじや》の薄暗い軒下で青年がヴァイオリンを練習していた。往来の雑音にその音は忽ち掻消《かきけ》されるのだが、ああして、あの男はあの場所にいることを疑わないもののようだ。低い軒の狭い家はすぐ往来から蚊帳《かや》の灯がじかに見透かされる。あのような場所に人は棲《す》んでいて、今、彼の眼に映ることが、それだけのことが彼には不思議そのものであり微かに嗟嘆《さたん》をともなった。だが、往来は彼の心象と何の関《かかわ》りもなく存在していたし、灯の賑《にぎ》わう街の方へ入ると、そこへよく買物に出掛ける妻は、勝手知った案内人のようにいそいそと歩いた。
彼はいつも外に出ると病後の散歩のような気持がした。海岸の方へ降る路で、ふと何だかわからないが、優しい雑草のにおいを感じると、幼年時代の爽《さわ》やかな記憶がすぐ甦《よみがえ》りそうになった。だが、どうかすると、彼にはこの地球全体が得態《えたい》の知れない病苦に満ち満ちた夢魔のようにおもえる。……幾日も雨の訪れない息苦しさがあるとき彼をぐったりさせていた。
「少し外へ出てみましょうか」
妻は夜更《よふけ》に彼を外に誘った。一歩家の外に出ると、白い埃《ほこり》をかむったトタン屋根の四五軒の平屋が、その屋根の上に乾《かわ》ききった星空があった。家並が杜切《とぎ》れたところから、海岸へ降りる路が白く茫と浮んでいる。伸びきった空地の叢《くさむら》と白っぽい埃の路は星明りに悶《もだ》え魘《うな》されているようだった。
その茫とした白っぽい路は古い悲しい昔から存在していて、何処《どこ》までも続いているのだろうか。その路の隈々には人間の白っぽい骨が陰々と横わっている。歪《ゆが》んだ掟《おきて》や陥穽《かんせい》のために、磔刑《たっけい》や打首にされた無数の怨恨《えんこん》が今も濛々《もうもう》と煙っている。無辜《むこ》の民を虐殺して、その上に築かれてゆく血まみれの世界が……その世界のはてに今この白い路が横わっているのだろうか。
その年の春、その土地へ移る前のことだが、彼は妻と一緒に特高課に検挙された。三十時間あまりの留置ですぐ釈放はされたが、その時受けた印象は彼の神経の核心に灼《や》きつけられていた。得態
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