朝ごとに窓窓がひらかれた
その窓からのぞいてゐる 遠い私よ
[#ここで字下げ終わり]
 これは二年前、彼が広島に行つたとき、何気なくノートに書きしるしておいたものである。郷愁が彼の心を噛んだ。甥の結婚式には間にあはなかつたが、こんどのペンクラブ「広島の会」には、どうしても出掛ようと思つた。……彼は舟入川口町の姉の家にある一枚の写真を忘れなかつた。それは彼が少年の頃、死別れた一人の姉の写真だつたが、葡萄棚の下に佇んでゐる、もの柔かい少女の姿が、今もしきりに懐かしかつた。さうだ、こんど広島へ行つたら、あの写真を借りてもどらう――さういふ突飛なおもひつきが更らに彼の郷愁を煽るのだつた。
 ある日、彼は友人から、少年向の単行本の相談をうけた。それは確実な出版社の企画で、その仕事をなしとげれば彼にとつては六ヶ月位の生活が保証される見込だつた。急に目さきが明るくなつて来たおもひだつた。その仕事で金が貰へるのは、六ヶ月位あとのことだから、それまでの食ひつなぎのために、彼は広島の兄に借金を申込むつもりにした。……倉敷の姪たちへの土産ものを買ひながら、彼はなんとなく心が弾んだ。少女の好みさうなものを選
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